日系アメリカ人収容所問題の真実

       佐々木智江

 

 

1 労働移民としての歴史 

 アメリカは、新大陸に夢を託してやってきた経済的に貧しい移民が築いた国である。「人種のるつぼ」といわれるこの国では、その植民初期から、民族間・人種間で絶えることない反目、緊張状態が存在していた。その中でも中国に代表されるような東洋系の人々は、他の被差別民と違い、言葉・宗教・文化だけでなく、皮膚の色まで違う存在であり、差別する側の白人たちにとって、奇異と恐怖、迫害対象となった。いつまでもアメリカに同化しえない異邦人として、常に社会の最下層に虐げられてきたのである。

 東洋人としての初めの移民は、中国人であった。彼らは、アメリカ・ゴールドラッシュ時代に、労働移民としてアメリカに移動してきた。この当初から、彼らを迫害するような雰囲気が存在していたらしい。実際に迫害が始まったのは、1880年代である。暴力的なものから、州に州民として認められず、保障を受けられないなどのものまで、さまざまあったようである。1882年には「中国人排斥法」が成立した。1943年に廃止されるまで、中国人の入国が制限・禁止されるものであった。

 日本人のアメリカ移住は、この1880年代に始まる。中国人に代わるものとして、登場してきたのである。この頃の移民には移住の意志がなく、出稼ぎであり、その74%がカリフォルニア州に移住した。なぜなら、カリフォルニア州は、温暖な気候、広々とした土地があり、加えて太平洋に面していたからである。海の向こうに、祖国があるという安心感と、自分のいる大陸と祖国をつなぐ海から離れたくないという思いが、彼ら日本人を、海岸沿いから離さなかったようである。この頃の日本国内は、明治維新で大変混乱しており、経済的基盤を求めて、アメリカのみならず、各国に移住する人々が増えていった。日本人としての初めての移民は、1869年に、会津・戊辰戦争で負けた人々であり、再起を図るため、カリフォルニア州のある小高い丘に「ワカマツ・コロニー」の建設までした。

 このように日本人労働者が勢力を伸ばしてきた理由の一つに、賃金の安さがあった。

 

「たとえば国人が週給5ドルなのに対して、日本人は日給35セントから40セントで働いたという・・・・・」

『カリフォルニア日系知識人の光と影』より、一部抜粋

 

これらの仕事は出来高払いであったが、彼らは大変よく働き、人夫請負業者に重用された。白人が一日平均3ドルしか稼げないのに対して、日本人は4ドル以上の収入を上げている。

1890年のアメリカ在住者は2039名、その後毎年1000、2000と増えていく。1900年には10年前の12倍である25000名近くの人々が移住している。

二十世紀にはいっても、移住する人々の数は増えつづけたが、次第にトラブルも増え始め、1908年に、日米紳士協定が結ばれた。(日本側が自発的に

アメリカ旅券交付の停止を行った)1924年、日本人を標的にした移住禁止の条項が、アメリカ連邦法(アメリカ国内における移住民に対する法律)に追加され、次第に反日感情があらわになってきた。当時は第二次KKK(クー・クラッスス・クラン)運動が盛んになっており、日本人を始めとする東洋人が、この運動により被害を受けたという報告はないが、多少なりともこの影響を受けたことは否めないであろう。ヨーロッパからくる新しい移民よりも、数が少

なく、太平洋岸という比較的限られた地域に住んでいた日本人は、特に差別を受けやすい環境にあったといえる。日本人に対するアメリカ側の対応により、日本人のアメリカへの渡航は完全に途絶え、南米ペルー・ブラジルなどに移民が流れていく結果となる。これ以降、この時からアメリカに移住した人々は「日系人」と呼ばれ、区別される。

 

 

 

 

2 アメリカ移住の経緯

 1884年、日本政府は海外移住希望者に、契約移民として出国することを認めた。この背景には、武家制度が廃止されて、家制度の中で生きてきた、特に次男以下の男性が収入を得るために苦労するようになったことがあげられる。

また、徴兵制度が確立され、これから逃げるために海外移住を希望した男性も少なくない。北海道、台湾に渡ることも許されてはいたが、多くのものは先にあげた理由からアメリカに渡ることを選んだのである。

 彼らの多くが、アメリカを希望の国と考えていた。アメリカは大きくて、とても豊かで、望みどおりのことができる国だと考えていたようである。多くの人々はアメリカについてたいした知識はもっていなかったが、成功した人の話、たまに手に入る写真から、夢を膨らませた。

 そのため、初期のアメリカ移民の大部分は、日本の都市部よりも農村部の出であった。社会の底辺よりは上で、教育も一般の水準以上。エネルギッシュで高い志を持ったこのような人々の中には、成功を収める者も多くいた。

 ほかの国からの移民と違って、日本人の男性は妻子を連れて行かず、一人でアメリカに移住するケースが多かった。一人で暮らし、家族に送金を続け、独身者は年をとってから結婚した。一方、女性は、男性よりも若干豊かな階層の出身で、年齢も男性より10歳から15歳下のことが多く、教養が高かった。

これには、「写真花嫁」という背景がある。女性側にアメリカから送られてきた写真、男性に向けて日本から送った写真だけで、結婚を決めてしまうというものであった。実際、自分がアメリカに行くまで相手の顔を直接見ることができないというこの結婚は、日本から夫と暮らすために渡米した女性の多くが、相手に幻滅したという。男性側が偽りの写真、履歴を送っていたからである。しかし、日本に帰ることはもはやままならず、新天地アメリカで暮らすことを余儀なくされた。この時の一世の男性対女性の比率はおよそ2対1であり、多くの男性が独身を通さねばならず、写真花嫁はなくならなかった。

 

 

 

 

3 移住初期

 労働移民として、アメリカに渡った初期は、地域によってばらつきはあるが彼らにとって辛いことの連続だった。

 

「日本人が住んでいた家は、ニワトリ小屋のように狭くて小さく、改築した馬小屋のようでした。・・中略・・借地の契約が切れると、家を馬に引かせて、ほかの農場で働くために移動していました。」

『The一世 パイオニアの肖像』より

 

 たとえ賃金が安くても、不平を言うことはできなかった。いっしょに渡米してきた子供でさえも、スクールボーイとして働いた。(いわゆる、家政婦のようなもの)子供をはじめ、多くのものは英語を解することができず、そのために待遇改善はもちろん、意思疎通さえままならなかった。

 

「一心不乱に働きました。英語はもちろん、アメリカについてまったく何も知らず、朝早く起き、弁当と水を持ってトラックが待っているところまでいきました。・・中略・・とにかく働きに働きました。働くことがすべてでした。」

『The一世 パイオニアの肖像』より、ある労働移民の話

 

 どんなに辛くても、彼らはいつか日本の故郷に錦を飾ることを夢見て、働きつづけた。この中には、労働移民ではなく、安定した職を手にしたいと、農業に挑戦するものもいたが、それしても元手の金が必要であり、そこからさらなる成功を手にするには、多くの時間と運が必要とされた。

 労働者として働いた場所により、彼らの待遇・成功の違いが見られるのは、

彼ら自信の運もあるが、やはり、日本人の捉え方がおのおのの地域で違ったからであろう。やがて、表面化してくる日本人に対しての敵意をその身に感じつつ、勤勉に働き続け、小さくても自分の土地をもつまでになったり、転職をして何とか中流の生活を遅れるまでになったりしていった。しかし、渡米してきた当初は「いつかは日本に・・・」と思っていても、実際に帰国したものはあまりいなかったようである。

4 帰化権の獲得にむけて

 移民が集まってできた国であるアメリカでは、1790年に「帰化法」を制定し、編集を重ね、ヨーロッパ系移民、黒人には早い段階で帰化権を与えていたが、黄色人種には否定されていた。1922年には、連邦最高裁で日本人に帰化権はないと判決が下され、一世は自分が望んでも、日本国籍のままでの生活を余儀なくされた。しかし一方で、アメリカ生まれの外国人、つまり、二世は、生まれた時点で、アメリカ市民権を持つアメリカ人として、アメリカ憲法で認められていた。これは日本人の二世でも例外ではない。ところが、1924年まで日本の憲法が「世界中のどこでも日本人が父親であるならば、その子供も日本人である」としていたため、日系人の二世は二重国籍になった。(多くの二世は自分がアメリカ人であると認識していた)意識化において日系人の家庭は、親が日本人、子はアメリカ人と、家庭の中に二つの国籍があったことになる。

 アメリカ国内における日系人に対する風当たりが強くなっているのを、証明するかのように「外国人土地法」が制定された。これは、外国人が土地を持つことを法律違反とするものであり、農業を第一職業とする日系一世にとっては、職を失うことを意味していた。これは、まさしく日系人狙いの法律といえる。日系一世は、アメリカ国籍を持つ自分の子供や友人の名義で土地を取得しようとしたが、これさえも憲法違反とみなされ、非難を浴び、日系人はアメリカ社会を構成する一員としてなかなか認められなかった。ただし、この行為はカリフォルニア州では是認された。多くの日系人が住み、半数近くが農業に従事しているこの州で、この行為が認められらことは、大きな意義をもつものであった。

しかし、何にせよ、生活のための手段が認められないことは、彼らにとって大きな苦しみとなり、違法手段を経てまで何とかしようとしたものもいれば、あきらめて転職したものもいて、混乱を招くこととなった。

 

 

5 子供の教育

 アメリカで日系人が平和に暮らしていくためには、外面的同化(服装など)と、内面的同化、アメリカ社会の価値観の吸収が必要であった。

一世は、自分たちがアメリカ人として認められない苦しみから、自分の子供である二世にはできる限りの教育を施そうと苦心した。一刻も早くアメリカ社会に受け入れられるには、高い教育こそが必要であると考えたのである。自分と同じように農業者となるよりも、教養を身につけ、政治の風向きに左右されない職につき、同時に他のアメリカ人から侮蔑ではなく尊敬を得るのには、教育しかないと考えたのであろう。たとえ貧しくとも、それが社会に受け入れられるための最短のコースであると信じ、一世は、自分の子供の教育に力を注いだ。また、それによって子供がアメリカ社会を理解し、吸収してくれることを望んだのである。

 

「・・我慢をして、子供たちのすばらしい未来に夢を託すしかありませんでした。」

『The一世 パイオニアの肖像』より

もともと日本では家族の地位と調和が個人より重んじられ、家族一人一人の行動が家族全体の名声につながるという考えが浸透している。加えて、教育を重視する儒教伝統から、一世は強い影響を受けていた。

 

「一世たちは息子や娘の優れた成績を誇りに思っていた。子供たちの幸せを第一にし、自分たちが入用とするものは最低限に抑えていた。ささやかな楽しみでも犠牲にすることがしばしばであった。」

「この国で子供たちを育てるのに、一世の両親は数多くの犠牲を払いました。私たちはいい教育を受けさせるために、できることなんでもやりました。」

『フッドリバーの一世たち』より抜粋

 

当然、二世のほうも親の期待にこたえるべく、苦労を重ねた。現に、二世の大学進学率、及び奨学金獲得率は、他の人種のどのグループよりも高く、1960年代には「モデル・マイノリテイ」という言葉が生まれる発端の一部にもなった。しかし、実際社会的地位の高い職につくことは難しかった。(戦後20年以上たってから、日系人はその勤勉さを評価され、地位の高い職につけるようになった)このように、帰化権問題が、日系人の教育に対する異様なまでの関心の高さと、それによるジェネレーション・ギャップを生み、助長したのだといえよう。

 

 

6 日系人社会の成立

二世の数が増えるにつれ、アメリカに忠誠を示そうといくつかの団体が作られるようになった。多くは、彼らの仕事仲間の域を出なかったが、だんだんと統合されて大きなものとなっていった。サンフランシスコの「アメリカ忠誠協会」はその代表例である。

1929年、そのような各地の組織を統合し、「日系アメリカ人市民協会」(通称JACL Japanese American Citizens league)が結成。以後、日本人に対する偏見と迫害に耐えながら、日系人社会の代表として、アメリカ人となる道を模索し、隔年に決意表明のための全国大会を行った。しかし、この団体も当初は、アメリカ人ではないという理由で一世をメンバーからはずし、二世と分離して考えようとしていた。一世は、アメリカの生活になかなか溶け込まず、日本人同士で固まることが多かったからである。このことからも、一世と二世の間にジェネレーション・ギャップがあったことが理解できるだろう。-

1 12/7,1941 真珠湾攻撃

1941年、12月7日に日本軍はアメリカ真珠湾基地を奇襲。この事件の裏には、多くの思惑があるようである。アメリカ側は、事前に日本側の攻撃をつかんでいたようであるが、真実は明らかにされていない。

 この真珠湾攻撃の時から、一世は「敵性外国人」とみなされ、二世・三世も不信と侮蔑の目で見られるようになった。この日の夕方から「敵性外国人法」に基づいてすでに作成済みであった日系人の名簿(大統領の極秘命令で、参戦する前の11月に作成)をもとに、日系社会のリーダーであり、アメリカに批判的であるとされたものが、次々逮捕された。わずか3日間の内に1291名、2月上旬までに2192名が逮捕。この他、財産の凍結、生命保険の停止、武器・カメラの提出、夜間の外出禁止、長距離移動の禁止の命令が立て続けに出され、日系社会は恐慌状態となった。

 実は、アメリカ政府中枢部は、「国内における日本人の破壊工作は、ありえない」という認識をもち、「二世の90%、一世の75%以上がアメリカに対し、完全に忠誠である」との正式報告を受けてさえいた。

 しかし世論は「日本人」を責めたて、真珠湾に対する根拠なき流言が生まれて、ついには日本人集団排除まで声が高まっていった。

 2月19日、大統領行政命令9066号にサインがされ、多くの日系人が住んでいる太平洋岸を軍事地域として指定し、ここからすべての日系人を強制的に立ち退かせる権限が軍に与えられたのである。

 

 

2 強制収容所

12万名の日系アメリカ人は、僅かな準備期間が与えられただけで立ち退きが迫られた。それまで辛苦の上に蓄えてきた家財は二束三文で売りはらわなければならず、全米16ヶ所の集結センターに追い立てられた。この集結センターというのは、元競馬場・博覧会場、家畜品評会場であり、当然のことながら衛生設備などなく、多くは環境が厳しいところにあった。

 この集結センターで約100日あまり過ごした日系人は兵士に監視されながら、遠く離れた全米10ヶ所の戦時再定住センターに移された。これらのセンターは、有刺鉄線に囲まれ。武装兵が監視し、荒野の果てにあった。日系人はここで長くて4年間もの間、屈辱の抑留生活を強いられたのである。一般に、日系人収容所とは、この戦時再定住センターのことを指す。60年代に入ると、強制収容所と呼ばれるようになる。

 

 

3 収容所内の生活

 収容所は、環境が厳しく、衛生設備も不十分であり、集団下痢・集団風邪が発生することもあった。 

 しかし、有刺鉄線の外のアメリカ社会と同じような生活を送るために、学校、図書館、病院、新聞社、教会などが作られ、外に出られないということを除けば、前の暮らしと何ら変わらない状況が作り出された。収容所内には「共同管理組合」が作られ、収容所内の日系人の生活を保つために、管理をしたり、どんの仕事に対しても月19ドルを給与していたりした。また、外からアメリカ人の友人が訪ねてきて,面会するのも許されていた。

1つの家庭を1グループととらえ、住居が割り当てられていた。ただし、食べ物は1つの建物に集まって、食堂で食べるようにされていた。これが、ますますジェネレーション・ギャップを促進させることとなった。家族単位で集まって行動する日系人の典型的な様子は見られず、年代ごとに集まるようになったのである。食事の内容に関しては、それぞれの収容所、または個人差でばらつきが見られるが、日系人の3分の一が「食事がまずい」、もう3分の一が「食事がおいしい」と答えたのは、当時の生活レベルの差が、如実に現れているといえるだろう。

 

「キャンプの大部分の人間は、心理的に傷つき、ひどく困惑し、感情を表さないことの多い集団であった。・・中略・・若者ほどアメリカ人として認められたいという願望を持ったが、その親たちは疲れきり、不安におびえながらこの単調な暮らしに慣れてきてしまっていた。」

『ジャパニーズ・アメリカン』より

 

特に厳しい労働をさせられたという記録は残っていない。しかし、隔離という状態が、日系人の心に深く影を落としていたのは言うまでもないだろう。

 

 

4 収容所内での対立

 二世団体のJACLは,日系社会の混乱と動揺に耐えながら、強制立ち退きに抵抗することの無意味さを悟り、政府に対して協力的な態度をとっていた。そのことをより示すため、退去政策に同意、日系人に呼びかけまで行った。そのため一部の日系人から「裏切り者」と非難され、どの収容所でも対立が起こった。 

 しかし、立ち退きの際、アメリカの軍隊・警察に反抗したという事実はない。どの日系人も整然と指定時間・指定場所に現れた。(立ち退きは集合制)

 1942年、JACLは各収容所から代表を集め、徴兵義務の復活を主張した。もちろん、自分たちを追い込んだ国のために命までささげることに対し、大きな躊躇を感じたものは多かったが、最終的にはこれに合意した。この結果に憤慨した一部の日系人が、代表者を襲う事件までに発展した。

 後に、どうして日系アメリカ人は、アメリカ政府のやり方に対して反抗しなかったかという疑問が多く投げかけられた。もちろんいくつかの個人抵抗はあったが、もし、実際に武力による集団抵抗をしていたとすれば、その結果は恐ろしいものであっただろう。JACLは、アメリカの犬とののしられ、のちのちまで日系アメリカ人に信用されないこととなるが、当時の追従政策は賢明なものであったと思う。アメリカ政府に対する心の中の不満が、そのままJACLへの不満に転化したのも理解できる。

 

 

5 忠誠審査 

 1943年、1月下旬、軍部は二世からなる部隊を再編することを決定。そして、18歳以上の男子に質問表を用意した。このとき「出所許可申請書」が問題を招いたのである。問題個所は以下のとおり。

 

第27問 あなたは合衆国軍隊に入り、命令されるいかなるところにおいても、戦闘任務につくことを誓いますか。

 

第28問 あなたは合衆国に対し、無条件に忠誠を誓い、外国・国内勢力によるいかなる攻撃からも、誠意を持って合衆国を防衛することを誓いますか。また、日本国天皇やほかの外国政府・権力、組織に対して、忠誠心を抱いたり命令に服従したりしないことを誓いますか。

 

この質問は、日系人に苦しい選択を迫るものであった。一世に対しては、法律によりアメリカ国民になることを否定しておきながら、事実上日本国籍を放棄し、無国籍になることを強いるものであり、二世にとっては、市民としての権利を剥奪しておきながら、アメリカの正義なるもののために生命を捨てよと要求する、理不尽なものであった。物理的抵抗を試みることもなく、ただ言われるままに従順に退去・拘留命令に従ったことで、アメリカへの忠誠心は十分に立証されたものと考えている彼らにとって、これは絶対に承諾できるものではなかった。この忠誠登録を機に、アメリカ国籍離脱と、日本送還を求めるものが相次いだ。「市民としての権利が回復されるなら、喜んで応じましょう」と条件付きで答えるものもいた。

 これを受けて、政府が質問表を変更し、JACLがイエスと答えることを説得したため、最終的には多くの人がイエスと答えた。登録対象者約78000名のうち、その87%が無条件忠誠を誓った。しかし、第28問にノーと答えた6700名、条件付き・無回答の約2000名が不忠誠とされた。中でも最も激しく反発したツール・レイク収容所では、対象者の3分の一にあたる3216名が忠誠の意思表示を拒否した。これらの人々は、後に「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれるのである。

 

「難しい選択であった。・・中略・・ただ、これが私の家族が偏見や迫害を受けずに、カリフォルニアに再定住できる唯一の方法だろう」

『カリフォルニア日系人収容所』より

 

この忠誠審査の結果、多くの家族の中で、対立・別離が生まれ、世代間の分裂も起こった。

 そして、不忠誠者をカリフォルニアのツール・レイク収容所に集め、忠誠者と隔離させることになった。よって、ツール・レイクは、合衆国に対する不忠誠者であふれ、闘争が頻繁に起こるところとなり、暴動沈静化のため軍隊が置かれ、2ヶ月以上も戒厳令が出される事態まで起こった。

 

 

6 日系人部隊

 忠誠登録を経て兵役を志願し、実際兵役につけたのは僅か815名だった。これにハワイからの日系兵を合わせて第四四二連隊戦闘部隊が結成。

 彼らは、激戦地であったイタリア戦線に派遣され、ドイツ軍と戦った。そのころ、テキサスの歩兵部隊がドイツ軍の猛攻を受け、全滅に近い大打撃を受け、孤立無援の状態に陥った。新聞では「ロースト・バタリオン」(失われた部隊)と報道されたほどであった。

 このときこの部隊を救おうと、信じがたい奇跡的な戦いぶりを見せたのがこの四四二連隊戦闘部隊であった。この部隊のスローガンは「Go For Broke!」(倒れるまでやれ!)であった。多くの犠牲者を出しながらも、このテキサス部隊の救出に成功。この時のテキサスの兵士たちは、歓声を上げて二世兵士に抱きつき、涙を流して喜んだという。

 

「混戦の中に、青い星条旗が見えたような気がした。・・中略・・その後ろに多くの東洋人の顔が見えた。彼らはこう叫んでいた。『われわれアメリカ人の仲間はどこだ?』その瞬間、泥と血にまみれた彼らの顔が神のように見え、私たちは彼らに向かって呼びかけた。『同胞よ、ここだ!』と」

『アメリカの歴史』より

 

「多くの仲間が死んでいった。テキサス兵を探している中で次々と撃たれ、倒れていった。・・中略・・その中でぼろぼろの星条旗と、見慣れた戦闘服の一団をみつけた。こちら側の星条旗を振り回し、味方であることを伝えた瞬間、彼らは飛びついてきた。『おお、兄弟よ!』なりふりかまわず抱き合い、泣きあい、喜び,お互いに叫んだ。『アメリカ万歳!』

『大和魂と星条旗』より

 

イタリアドイツ降伏にいたるまでに,10000名近い死傷者を出しながら輝かしい功勲績を立て、ものの見事にアメリカへの忠誠を証明して見せたのである。勲章を授けられた数も多く、アメリカ軍の歴史の中でも最高の部隊となった。しかし、どのような武勲を立てたとしても,遺骨となってアメリカに戻り、鉄柵に囲まれた収容所の中にいる両親にその骨が渡されるというのは,何という悲劇であったろうか。

 また、陸軍は対日戦争に備えて、情報機関語学校を作っていた。いわゆる、日本語通訳や翻訳兵の育成機関である。46年に閉鎖されるまで、約6000名が卒業していった。

 このうち、3700名が太平洋戦線に従軍、「二世語学校のおかげで、太平洋戦争は少なくとも2年は短縮された」といわれるほど、貢献した。皮肉なことではあるが、「キベイ」と称され、最も危険視された二世(アメリカで生まれ、日本で教育を受け帰国した者)がもっとも有能な捕獲文書の翻訳、捕虜尋問の通訳をし,』その能力を遺憾なく発揮した。かつては日本の文化と言語に精通していることで非難されたその知識が、逆に軍の秘密兵器として重用されたのである。

 結局、第二次世界大戦に従軍した日系人のその比類なき忠誠心と、勇猛果敢なる行為が、その後のアメリカ人の、日系人に対する感情を変え、結果的に日系人の社会復帰に大いに貢献したのである。しかし、それは多大なる犠牲を払うものであった。

 

 

1 日系人の解放

 日系アメリカ人を収容するのには、ほんの数ヶ月しか必要としなかったが、すべての日系人を解放するためにはおおよそ4年を必要とした。解放政策は1942年から始まっており、ようやく1944年11月に日系人集団排除令の解除が正式決定され、翌年に発行された。しかしすべての日系人に許されたわけではなく、主にツール・レイクにいたものはまだであった。翌年、日本の降伏を見越して、危険視された人々の強制送還が決まる。

 こうして、戦時再定住センターという名の強制収容所は、1945年の10月から12月の間までに次々と閉鎖された。

 12000名の抑留者中、太平洋岸の故郷に戻ることができたのはそのうちの約半分であった。ほかに定住の地を求めたのが、53000名であり、そのうちの約半分がイリノイ州シカゴに集中した。これは、シカゴにおける労働需要が高く、人種的偏見が比較的少ないからと考えられる。東部に移住した日系人は、敵意よりも好奇心の目で見られたという。

 しかし、仕事や居住地を見つける際に、人種偏見と戦わなくてはいけなかったことは言うまでもない。

 

 

2 日系アメリカ人賠償請求法

1952年、アジア系の人々に帰化市民となることが許された。同時にアジア系アメリカ人を差別していた州法も廃止され始めた。

 1948年、政府は日系アメリカ人社会が受けた損失の補償に第一歩を踏み出した。トルーマン大統領が、日系アメリカ人賠償請求法を承認させるべく、議会に働きかけたのである。すべての不動産をカバーするというこの法律は、

象徴的なものとなったが、金銭的な清算からするとまだまだであった。

 多くの年月をかけて、ようやく1976年、アメリカ独立祭の一環として、フォード大統領は、ルーズベルト大統領の第9066号を破棄し、「誠実な清算」は「国家の偉業」と同じように「国家の過ち」を検証しなければいけないとした。これは、正式な謝罪とみなされている。

 実際に支払いが行われたのは、1990年。実に抑留開始より半世紀もあとのことであった。この年より前になくなってしまった人には、何も保証はされなかった。司法省の式典で100歳以上となった最高齢者に、20000ドルの小切手がはじめて渡された。それには、ブッシュ大統領の謝罪文が添えられていた。

 

「謝罪と保証金だけでは、失われた年月を回復し、苦痛に満ちた記憶を消し去ることはできません。・・中略・・私たちは過去の過ちを完全に是正し、償うことはできません。しかし、あくまでも正義を護ろうという決意を明らかにし、日系アメリカ人の方々に重大なる不正義がなされたことを認めることはできます。心からの謝罪を表明し、償いをなす法律を制定することによって、あなた方の仲間、アメリカ国民は、自由と平等と正義の名のもと、アメリカの理想にまい進しようと決意したのです。」

 1993年12月までに、その支払いを受けたものは79155名、総額150億8310万ドルに達している。

 

 

3 賠償請求運動

アメリカ政府の賠償は、自発的なものではなく、日系アメリカ人とその協力者側からの働きかけの結果である。それにより、世論が動き、政府が動いたのである。

しかし、はじめから日系人が賠償に向けてまとまっていたわけではなく、いくつかのグループに分かれてしまい、賠償そのものに反対する日系人までいたのである。彼らの多くは、収容所で過ごした日々を忘れたがり、静かに過ごしたいと願っていた一世であった。

それでも、多くの若い日系アメリカ人の説得や、周りの支援者が運動を展開したのである。政治家にアプローチしたり、メディアに協力を求めたり、自ら政治家になったりと、彼らは、アメリカ人として、真に社会に認められることを望み、そして、アメリカ人の過去を知ってもらうために多くの努力を重ねたのだ。

 

 

4 あとがき

このレポートを作成するにあたり、また新しく本をいくつか読んだが、そのどれもがずいぶん昔に出版されたものであり、また人の記憶に頼る部分があるために、いくつか史実の食い違いがみられた。これはすなわち、次第に風化の道をたどっているといえるのではないだろうか。

もはや、半世紀以上も前のことになってしまった、第二次世界大戦ではあるが、この期間に何が行われたか、そしてそれが今にどうつながっているのかを

知ることは大切なことだと思う。

戦争を体験したことがないものが4分の3以上を占める中だからこそ、この私たちは戦争の傷跡を知らなくてはいけないのである。

今回のテーマであった「日系アメリカ人」は、今やアメリカ社会の一員として認められ、活躍の場を広げてきている。このような過去にとらわれる必要はないが、過去を知った上で付き合っていくことが、健忘症といわれる私たち日本人には必要なのではないだろうか。

最後ではあるが、収容所に入ったことで心に深い傷を負われた日系アメリカ人の方々、すでにご高齢になっていらっしゃるであろう方々に-、敬意を表したい。

 

 

参考文献 順不同

カリフォルニア日系知識人の光と影   松下志郎  明石書店

アメリカ在住日系人・強制収容所の悲劇 大谷康夫

罪なき囚人たち            ロジャーダニエル  南雲堂

アメリカン・ヒストリー        A・ラドキ

The一世              A・スナダ編  読売新聞社

フッドリバーの一世たち        リンダ・タムラ  メイナード出版 

ジャパン・ボーイ           ジョイ・コガワ  角川書店

米国抑留記              伊藤憲三  鹿島出版

大和魂と星条旗            トマス・K・タケシタ  朝日出版

ジャパニーズ・アメリカン       R・ウィルソン

日本の兵隊を撃つことはできない    デイ多佳子  芙蓉書房

二つの祖国              山崎豊子   新潮社