引揚者の苦難―太平洋戦争の爪痕―
木村 洋
1. 初めに
太平洋戦争はその末期から終戦にかけて、特に数多くの惨劇を生んだ。侵略されたアジア諸国は勿論だが、日本の側にもそうした中で苦しむ人々がいた。原子爆弾の投下を受けた広島・長崎など日本国内での出来事は、歴史の教科書などでも大きく取り上げられよく知られているが、それでは国外は一体どういう状況だったのだろうか。
戦争末期の東南アジアにおける追い詰められた日本兵の苦難については、比較的人々に知られているように思う。日本文学を代表する本の中の一冊、自らの体験を基に執筆された大岡昇平の「野火」の中では、人肉を食べて命をつなぐ人間達の姿も描かれている。だが、中国や朝鮮半島で暮らしていた軍に属さない一般の日本人が、敗戦によりどうなったのかということについては、あまり取り上げられていないのが現状だ。少なくとも高等学校で使用されている教科書では、欄外にあるたった三行の記述だけでしか説明されていない。
私は中学生の頃に、実際に戦争直後の中国大陸から逃げてきた経験を持つ先生のお話を、伺ったことがある。生きて日本へ帰れたことが奇跡とさえ言えるような先生の大陸での経験は、私に驚きを与え、この問題に対する関心を呼んだ。そして前期にヤミ市について調べ、引揚者について再び触れることになった私は、これを機会に引揚者の苦難とその背景を明らかにしてみようと思ったのである。
2. 戦争末期の中国大陸
アジアに植民地を拡大させていた日本は、そこに多くの日本人を移住させていた。その中でも特に今回注目したいのが、満州である。昭和五年の春から世界恐慌の影響で不況のどん底にあった日本は、侵略によって活路を開こうとし、遂には強引に満州国を成立させた。そして、この地の日本人人口の構成比率を増やす為、また、日本国内の農村過剰人口を減らす為に、日本から満州へ日本人を送り始める。彼らは満州を開拓し、近代化するのだとして開拓民と呼ばれたが、実際には中国人がやっとの思いで拓いた土地を、一戸につき五円(移民が政府から受けた食料補助の一ヶ月分程)という安い値段で買い叩き、ほとんど強制的に取り上げて追い払うケースが多かったという。
こうしたことから現地の中国人の対日感情は悪化し、各地でこれに反対する武装蜂起が相次いだ。日本側はこの反抗勢力を軍事力で抑え込もうとしたが、これが敗戦後に大きな反動として返ってくることになった。
3. 敗戦と在中邦人の悲劇
広島に原子爆弾が投下されてから三日後の八月九日未明、百七十四万人のソビエト連邦軍が満州に侵攻を始めた。これに対し日本軍は長期に渡る戦争で疲弊しており、いち早く撤退を始めていたことから、一部地域を除いてほとんど無防備な状態であった。ソ連軍機甲部隊は無人の野を駆け続け、あまりにも進撃が急な為に補給が追いつかずガス欠になったとさえ言われる。
ところが驚くべきことに、このような状況にも関わらず、北満州に入植している開拓団や居留民などに対する避難措置は一切行われなかった。国が、避難民を運ぶ船も、彼らの食料も用意することができなかったことに加え、彼らの疎開によってソ連に北満の兵力弱体化が見透かされることを恐れた為だ。しかも日本軍は撤退時に、ソ連軍の追撃を恐れて諸方にかかる橋を破壊し、残された一般人の避難を困難なものにした。
軍隊への根こそぎ動員により、そのほとんどが老人や女性、子供だけになっていた入植者達は、ソ連軍の進攻とともに大混乱に陥った。鉄道沿線に住んでおり、避難列車の最終便に乗ることができた人や、満州に残っていた日本軍の関東軍第五軍による必死の奮戦に支えられて逃げのびれた人もいたが、僻地に住んでいた人々は馬車や徒歩で避難をし、ソ連軍の進撃を受けて行き詰まったのだ。相次ぐ暴行・略奪により追い詰められた開拓民の中には集団自決をするケースが目立った。次に紹介するのは、中国残留孤児として昭和五十五年に里帰りを果たした安田美代子さんの体験である。
引揚途中の日本人婦女子縦隊が、興安から東へ四十キロの地点でソ連軍の襲撃を受け、千八百人が惨殺された。その中で生き残った一人の女性が袋の中にあった手榴弾の安全弁を抜いて投げると、たちまち周りの皆がそれにかぶさったが不発に終わった。困り果てた彼女は次にカミソリを出し、喉を切ろうとする。すると「私も殺してちょうだい。」という人が次々にその周りを囲んだ。彼女はその人達の喉を無我夢中で切り、その中にいた当時三歳の安田さんの喉も切りつけたが、傷が浅かった為に安田さんは生き残ったという。
また、同じく残留孤児である渡辺富士雄さんも、ソ連軍の攻撃を避ける為に逃げ込んだ洞窟で十日経っても脱出の目途が立たず、手榴弾による集団自決をすることになったが、爆発寸前に母親が畳のようなものをかけてくれたので、なんとか生き残ったと話している。
それ以外にも、他の避難する開拓団の馬車をソ連軍の戦車と見誤り、絶望的になって集団自決に及んだり、逃避行の途中で力尽きて死を選んだりと悲劇は続いた。これらにより、合計約一万名以上の死者が出たのではないかと予測されている。
一方日本の敗戦が決まり武装解除がなされると、それまで土地を奪われ日本人の風下に立たされていた中国人も反撃を開始し、その一部は開拓団を襲って略奪・暴行を繰り返した。日本の暴政のツケを、避難民が最悪の形で払うことになったのだ。
こうした開拓団に追い討ちをかけるように、満州に極寒の冬が訪れる。十分な準備を整えられるはずもない満州在留邦人は、結局昭和二十年中に約九万人、二十一年五月までに更に四万人の死者を出すことになった。
4. 帰れなかった人々
以上のような悲惨な状況の中、日本に帰ることができなかった人々がいた。ソ連軍の捕虜となった者、生きていく為に中国人の妻となった女性、親が死亡あるいは生き別れとなって残された子供など、そのケースは様々だが、中には足手まといになるからと捨てられた子供、人手を求める中国人に連れ去られた子供もいた。だが中国人の中には、過酷な逃避行を続ける子供を可哀想に思い、育てることを引き受けた人も多かった。こうして中国に残ることになった人々が、後に残留孤児・残留夫人として肉親探しを始め、戦争が生んだ問題として今も解決へ向けての努力が必要とされている。これについては後で触れることにして、次は先にソ連軍の捕虜となった人々について、もっと詳しく説明したいと思う。
5. シベリア抑留
当時ソビエト連邦の指導者であったスターリンは、大戦で荒廃したソ連の復興に、満州で獲得した日本人捕虜を使おうと考え、次のような決定を下した。「極東、シベリアの環境下での労働に肉体面で適した日本軍捕虜を五十万人選別すること。」
人数に不足があるとして、軍を離隊した者や居留民までが「男狩り」によって強引に連行され、その数は七十万名近くにまで上ったとされている。彼らは極寒の地シベリアへ送られて、鉱山、鉄道、道路、工場、石油コンビナートの建設や森林伐採などの重労働を強いられた。収容先には抑留者が入る建物すら無く、まず自らの手で家屋から作らなければならないところさえあったが、それくらいはまだ序の口であった。以下に挙げるような問題が深刻化し、日本人抑留者達は生き残ることさえ困難な厳しい状況に置かれることになったからである。
・ あまりにもひどい食料事情
戦争と大凶作の影響を受けて、当時ソ連は食糧難に陥っていた。これは捕虜としてシベリアへ連行された日本人への食料配給量を当然減らすことになる。しかも収容所のソ連人役人によるピンハネが横行した為、ただでさえ少なかった日本人の食料は彼らの生命維持を脅かす程にまで減ってしまった。例を挙げると、大豆ばかりという食糧配給が一ヶ月、その後小豆ばかりが一週間続き、しかもこれらの量が一食湯呑みに二、三杯だったケースがある。他にもマッチ箱程のパンと、小米の少し浮いたわずかなスープがあてがわれたという話もあるが、更に状況が悪化すると全く配給がストップすることさえあったようだ。アバカンにある収容所では昭和二十年の十二月二十三日に全ての食料が底をつき、一日中食料の支給が行われなかった。流石のソ連側もこの日は日本人を作業に駆り出さなかったが、次の日も一人一口ずつ程度のうどんの煮汁のようなものを用意するに留まったという。年が明けて昭和二十一年正月元旦、この収容所にも遂に餓死者が出た。いくら起こしても起きない戦友を不審に思い、仲間達が集まって彼を見ると、すでに息が絶えて冷たくなっていたというのだ。これを合図のようにして、ここでは一月中だけで三〇名以上の餓死者が出た。
こうした中、人々は自分の食料を少しでも多く確保することに必死になり、人間性さえ失っていくことになる。シベリア抑留を体験した四国五郎さんのメモには次のようなことが書いてある。
「 一つ二つ殴られたって問題ではない。食えばよいのだ。一つぶのめし、一かけらのパン、一さじのスープがすこしでも多く、自分の喉を通ればよいのだ。
だから、パンを切るとき、みんなの眼は猛獣のようにランランと鋭く光り、パンを分配する者の手もとを見つめる。等分されているかどうか、パンを並べる手が、こっそりと自分の上着の下にパン屑を隠しはしないか、と。
切りあげたパンは、ランランと光る眼の前で、くじ引きでみんなの手に分配される。しかし、そのくじも、いかさまがおこなわれてはいないかと、みんなは疑心暗鬼・・・・・・。
そうして分けられたパンは、手に持たれ、左右の者との大きさを見くらべられ、ボソ
ボソと独り言されながら、口に運ばれてゆくのである。」
この食料事情は一、二年経つ頃から少しずつ改善されてはいくが、それでも抑留者は空腹を緩和する為に、蛙や蛇、野草を探しに冷たいシベリアの大地を這い回った。しかし野草などには毒性のものもあり、その為に死者が出ることもあった。また、蛙の卵を多量に食べて死んだ者もいるという。ソ連側はこれについて厳しく警告したが、貧弱な給養で労働させられる者は警告に従ってばかりいられなかった。
・ 頻発する労働災害
シベリアへ移送された時点で日本人捕虜集団はほとんど全員が疲労困憊していたし、精神的打撃による虚脱状態も加わり、厳しい寒さのもとに憔悴しきっていた。そうした状況の中での不慣れな肉体労働は、労働災害を生じさせる可能性が高かった。しかも「作業量に応じて食料を支給する。ノルマを果たせば増食がある。」という言葉に釣られて、皆が少しでも多くのパンを得ようと無理をした。この為、次のような事例などが数多く起こっている。
<吹雪による凍傷>
<工場内でドラム缶が爆発し、失明>
<炭鉱作業で坑内の煤による慢性の気管支炎>
<採掘中に天井崩壊で死亡>
<積んであった材木その他が崩れ、圧死>
<凍結寸前の川の中で作業中、行方不明>
<鉱山の鉛毒のせいで食事がとれなくなり、死亡>
・ 医学的フォローの乏しさ
医師、看護人の欠員と医薬品の欠乏などによって、病人や怪我人は満足な治療を受けることができなかった。
こうして彼らは敗戦から地獄のような抑留生活を続けたのだが、一九四六年十二月に日本政府がようやく日本人抑留者の帰国についてソ連と協定を結んだことから少しずつ引揚が始まり、一九五六年末までにそのほとんどが帰国を完了した。
ところが様々な苦難を受けてきた彼らを迎えたのは、異端者を見るような冷たい目であった。この時の日本はアメリカ合衆国の支配化で、深まる米ソ冷戦体制の影響を受けていた。反ソ・反共産主義的土壌の根強いこの国にとってシベリアからの引揚者達は、時代認識が違い、危険思想を抱えてる可能性の高い過激集団であったのだ。日本政府やアメリカの占領軍は彼らに思想調査を行い、加えてソ連に関する情報調査をかなり詳細に行った。
だが、いかに異端者として敬遠されようが、引揚者達も生活の場を求めなければならない。彼らは自らがシベリアからの引揚者であることを絶対に口外しないことは勿論、記録を書くことで馬脚が現れることにも用心深く、履歴書を書く際に軍隊へ入ってから帰国するまでの数年間をどう埋めようかと腐心した経験を持つ人も多いようだ。帰国して問題無く職場に復帰できるだろうと思っていたところ、北海道の僻地の建設現場に出向を命じられたとか、職場復帰を果たしてホッとする間もなく、その日のうちに解雇されたというような人もいる。こうして普通の仕事を奪われた人々が、生きる為にヤミ市へ入っていくケースの多かったことは、前期のレポートで報告した通りである。
6. 中国残留孤児問題
さて、一方捕虜にはならなかったものの、過酷な逃避行を続けられず中国に残ることになった子供や女性は一体どうなったのだろうか。彼らは中国人社会の中へ入っていき、その多くは自分が日本人であることを隠して生活していた。まだ物心がついていなかった子供の場合、自分が日本人だと知らされず、中国人だと思い込んで生きていたということもあったようだ。これは戦前に日本が中国にしてきたことを考え、中国人の対日感情がどれだけ冷えきっていたかを想像すれば、納得できることであろう。文化大革命が始まると中国人の日本軍国主義に対する非難が一層強くなり、その矛先は残留孤児に向けられた。
「学校の授業で、先生が『日本帝国主義の打倒、日本の侵略者を中国から追い出せ』というような話をしたあとは大変です。放課後、騒がしくなり、だれからともなく叩かれたり、蹴られたり、髪の毛を引っぱられました。それでもじっと耐えるしかありません。」
という話を自らの著書で紹介しているのは、残留孤児だった渡辺珠江さん。彼女のいた
潘陽市南部の孤児院には、その頃四人の日本人子女が収容されていたが、一人は自殺、一人は精神不安定となった。それほどいじめが激しかったのだが、大人達は関与しない。かばうようなことをすれば、いつ反革命の罪に問われるかわからなかったからである。他にもスパイ容疑で突然捕まり、ろくに食事も与えられない監獄内で視力が失明寸前にまで衰え、寝たきりの体になったような人もいる。
だが、かといって中国人みんなが日本人に冷たかったわけではない。一人で中国に残
された日本人の子供を不憫に思い、引き取って我が子同様に、あるいは我が子以上に大切に育てた人も多かったことは、深く心に留めておかなければならない。
「養女に出されたのは、生母の死後一週間目。すでに一歳二ヶ月になっていたが、やせ衰え、身体はデキモノだらけ、歩くこともできなかった。生活が楽だというわけでもなかった中国人養父母は、夜中に交代で起きて看病、おいしいものは自分たちで食べずに食べさせて育ててくれた。」
という残留孤児の話や、
「ついにヌカしか食べるものがなくなった。しかし(私達は)ほとんど口にしなかった。実子が生まれたが、乳が出ず、餓死させてしまった。人から預かった子が大切だった。(我が子の死は)しかたがなかった。」
という中国人夫婦の話からもそれは窺える。
しかしやはり、自分がどこの誰なのかもわからず、数十年間を小さな村で十分な教育も
受けられずに過ごしたりと、皆それぞれ苦労をして生きてきたことには変わりがない。そ
んな彼らに対する日本政府の対応は、やや遅かったと言える。
戦後しばらく日中間を船が往復し、引揚者を運んだ。しかし前述したような事情により、
この船に乗ることができなかった人々がいた。広い中国大陸を港まで移動することは難し
い上に、昭和二十七年まで日本政府は、彼らに船賃さえ援助していなかったのだ。その数
は、昭和二十九年に厚生省が把握していただけでも五万二千百六十九人にも上る。その後
日本政府はしだいに帰国者援助を拡充し、更に昭和四十七年の日中国交正常化を受けて、
調査担当者を中国に送っての本格的な未帰還者調査を始めたが、生存が判明した残留孤児
の身元確認は、年を追うにつれて難しくなっていった。物心のつかないまま中国に残され
た彼らの記憶は、そうでなくともはっきりとしないのである。
それでは身元を確認できない孤児を日本に招き、報道機関の協力のもと肉親探しを行な
おうと、昭和五十六年、遂に訪日調査が始まった。この調査は離別の状況や父母の名前な
どの手がかりや厚生省保有の各種資料を基に、肉親関係者の抽出や報道機関による情報公
開などを行なって、名乗り出た肉親関係者と孤児に面談をさせるものである。面談するこ
とによって傷や身体的特徴、お互いの記憶の共通点などを確認するのだが、感情に左右さ
れて判断ミスが起こり、一度肉親だと思って一緒に暮らし始めたのに、後から実は肉親で
はなかったことが判明したケースもある。この為、面談を行ってはっきりとした確認がで
きない場合、判定は血液鑑定に持ち込まれることもある。
判明率が年々低下する中、こうして少しずつ残留者の身元が明らかになっているわけ
だが、受け入れる日本国内の人々の態度は、シベリア抑留者が帰国した時と同じく冷ややかであるようだ。例えばこのレポートの始めの方で、敗戦直後の混乱の中、中国大陸で命を落としそうになったという体験と共に紹介した安田美代子さんは、残留孤児として日本にいる肉親を探していた。首筋に残る集団自決しようとした時の傷などを手がかりにして、ようやく伯父がみつかったが、連絡を受けた彼は「新聞なんかに発表されては困る。」と激怒したという。そして、「この件は安田家のプライバシーに属することだ。」と主張し、裁判所では彼女の戸籍復活に反対する陳述をして身元引受人になることも拒否した。結局ボランティア団体の協力で戸籍は復活し、日本に一時帰国できることになったが、肉親からの迎えは無く、六ヶ月の滞在が許されているにも関わらず、八十八日間の里帰りで中国へ帰ってしまった。この一件の裏には、中国からの帰国者を受け入れるにあたって、世間体を気にする日本人の姿がある。これ以外にもこうしたトラブルは多く、一旦は無事肉親に引き取られた孤児でも、その後折り合いが悪くなって同居不可能になったりすることもある。身元引受人は言葉や生活習慣が大きく異なった相手を受け入れて戸惑いを感じ、金銭的にも負担が大きくなることから、しだいに帰国者の受け入れを拒むようになっていくのだ。孤児を受け入れると国から生活保護を受けることができるのだが、肉親は世間体を気にして受けようとしない。
このようなことが起こる原因は、日本人の中国蔑視や、異文化理解に対する意識の低さではないだろうか? 日本人の書いた中国批評を見ていると、どれも結局最後には、中国文化が自分たちの文化の水準まで上がってくるよう求める内容になっている。その中でも気になるのが、中国の家族・親族関係に対する批判だ。中国はとても縁故を尊重する国であり、特に血縁関係のある人間は大切にする。一人一人が自分の人生を犠牲にしても、まず家族の幸せを考えようとする。このことは確かに問題点も内包しており、個人の自由が束縛されたり、入学・入社や官職などの人事決定が実力ではなく縁故によりなされてしまうことに繋がることもある。こういった点は改善されるべきかもしれないが、しかし今の日本はむしろ、この中国文化から学ぶことの方が多いのではないかと思う。個人の自由が大きくなるにつれて地域社会も家族もバラバラになり、お互いの気持ちが伝わらなくなる。大人になった子供が親と生活するのは、経済的に親を頼りたいが為というケースが増えている。こうしたことが大きな問題として現れてきているのが、今の日本社会ではないか。それに比べて中国人は、日本へ来ても自分だけの幸せを考えていないケースが多い。中国への送金や、家族を日本へ呼ぶことを考えていたりと、常に身内のことが頭にある。身寄りのない自分を育ててくれた中国での育ての親を持つ残留孤児には、尚更この思いが強い。そして、彼らは日本に住んでいた実の肉親にも、中国におけるものと同じ程強い家族への思いやりを求めているのだ。
ところが、受け入れ先の家庭にはそれらがわからないことがことがある。場合によっては、わかろうとしない。ここに文化の違いによる戸惑いが生まれるのである。
7. これからどうすればいいのか
残留孤児二世にあたる子供達は日本へ来て学校へ通いだすと、しばしばいじめに遭ったという。日本語がわからなくて授業に追いついていけない彼らに対し、周囲の子供達は「中国人の馬鹿」「中国へ帰れ」といった言葉を浴びせたというのだ。昭和五十七年三月一日付けの朝日新聞では、東京のある日本語学校における、中国からの帰国児童を対象とした追跡調査の結果を発表していた。それによると七十パーセントの子供が「馬鹿」「汚い」「こじき」「中国へ帰れ」といった言葉を浴びせられたことがあるという。雇用問題も深刻だ。就職しようにも、日本語をマスターしていなければ採ってくれない。残留孤児だった重光孝昭さんは知人の紹介で神戸の設計会社に就職したものの、「日本語を上手く話せない」「コンピュータ関係の知識が無い」と退職させられた。他の人々もやはり職探しには苦労しており、やっと仕事が見つかってもそのほとんどが雑用、月給も十万から十五万円程度にとどまっているという。帰国者側に全く責任が無いとは言えないが、やはりこれらも私達の意識に植え付けられている中国蔑視の感情や閉鎖性を証明する材料であると思う。成績の優秀な孤児二世が就職を断られ続けるのを見て、その担任の教師は毎日新聞で「日本の企業や社会には、異質なもの、厄介なものを受け入れたくないという閉鎖的な体質が残っているように思える。」と語っている。しかし、本当に日本は中国を蔑視できるような立場だろうか? 先に挙げた家族意識一つ取ってみても、日本の方が決して住み良い国だとは言えないではないか。食卓を家族で囲むことを常識としてできる国、中国。私は中国に対して閉鎖的であることは、今の日本にとって大きな損失だと考える。私達一人一人がもっと異文化に目を向け、受け入れていくことが、世界の人々とつきあっていく為にも、そして私達自身の為にも重要であろう。
中国残留孤児問題は比較的解決されつつある。だが、最近期待されている朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化などが上手くいけば、新たに多数の残留孤児が見つかり、帰国するかもしれない。そうした時までに、敗戦の反動を最も強く受け苦労してきた彼らを温かく迎えられるよう、これから自分の意識を見つめなおしていかなければならない。