春を売る女たち

----売春問題の今と昔----

橋本洋美

"援助交際"

 こんな言華が蔓延したのは、数年前だっただろうか。『花の女子大生』と、20歳前後の女性が持て囃されたのはもはや昔のことで、今となってはすっかり『花』は女子高校生に移ってしまった。芸能界にデビューする人々も低年齢化が進み、小学生の女の子のためにと化粧品が売り出される時代になった。そんな中で、性の知識も薄いであろう若い女性たちが、『性』を商品化することによってお小遣いを稼ぐ行為が流行し、孤立や仲間外れにされることに不安を抱くという人間の社会性も手伝って、何の悪びれもなく行われた。それが売春という立派な犯罪であることを、いったい、彼女たちの何人が認識していたのだろうか。女はなぜ、自分を売るか。男はなぜ、女を買うのか。

 私は、現代社会のこの歪みを、売春の歴史から見ていこうと思う。

 

1 日本には奈良期のころから、さまざまな名称の遊女があった。奈良時代の古典『万葉集』に、筑紫国太宰府に「遊行女婦」が属した記事が見える。彼女らは、宴席に侍り歌舞をするのが仕事であった。しかしこの時点ではまだ春を鬻いでいたかどうかは定かではない。平安の中期になり、旅宿を兼ねて遊女を置き売春を営むものが現れた。これを「長者」と称し、女主人に限られていた。平安期の末期になると、初めて「抱き女」(遊女)専門の営業者が現れたようである。当時の遊女は自由の身であったらしい。だが、この頃から経営者は、抱えの遊女に衣装を高くおしつけて搾取したり、容易に身が抜けないように仕向けたフシがある。

 日本の各地に、遊女(売春婦)が多数出現するようになったのは平安末期からの戦乱期である。武士階級の登場とその横暴が、売春婦を多く発生せしめたと言えよう。戦乱期の遊女輩出の理由として、次のようなものが挙げられる。その一は、敗勢側の妻女が勝ち誇った武士らの求めで娼婦になるといったケース。そのことしては、戦乱の為に傷つけられた百姓が飢渇のどん底に喘いだあげく、やむなく若い女たちを倫落の淵に投げ込むような場合が挙げられる。この頃からすでに、明日の命も知れない状況下に置かれた男たちが、戦勝の幸として、そして今日も生きている証しに、娘たちを夜な夜なの慰安にした傾向がみられる。それは言うまでもなく後の従軍慰安婦に通ずる姿勢であろう。

 鎌倉時代の遊女屋では、金銀に金裕のあるものが遊んでいたが、幕府は百姓の浪費を戒めるために一旦は遊女屋を禁止させた。しかし武士や御家人らの要望が強くあったため、幕府は遊女屋の存在を認め、武士専属の遊女を設けるに至った。

 

続いての足利幕府は、12代将軍足利義時の時に幕府財政が逼迫したため、「傾城局」という役所を設置し、進んで遊女長の営業を認めて、鑑札を与えて税を取り立てた。こうして売春業を公に認めたのであった。

1590年、豊臣秀吉が天下を統一した。長い間の戦乱で日本国中に猜疑心が広まり、術策と欺瞞が横行する油断のならない世相であった。そんな中で秀吉は、「人心鎮撫の策」として遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊郭づくりを勧めた。かくして京都の万手小路に「柳町遊里」が造られる運びとなり、ここに日本の集娼制度が始まりを迎えたのである。この頃から、遊女屋経営に男が登場するようになった。

 

 

2.徳川家の保身に使われた女たち

 

 

 家康は、長者(旅宿兼遊女屋)の事情を熟知し、秀吉の遊里勧奨とその利点を見抜いて、己の勢力確立と安泰策に利用した。吉原遊廓が設置されたのは、大阪夏の陣のすぐ後である。開幕早々の徳川氏は、流入する大阪浪人の取り締まりを厳にする一方で、西方大名らを放蕩に誘導して財政と気迫を陥落せしめることに主眼をおいたのだった。

 徳川幕府の遊廓政策の特色は、己への反逆勢力を遊惰に導いて精力を殺ぐことと、廓[くるわ]を一ヵ所に集めること(集娼制)にあった。江戸の吉原遊廓は、はじめから諸大名や旗本らの闘魂を殺ぐことを目的としたもので一般町人の遊興用ではなく、一般庶民とは縁の遠い存在であった。それゆえに設備は豪奢を極め、高級遊女を据え、町人には日の飛び出るような遊興費となっている。諸大名の財政衰退を狙った政策として広く知られているのは参勤交代であるが、その道中や江戸滞在中に妻妾携行を禁じたのも、吉原遊廓での豪遊への伏線になっているとみることが出来よう。

 幕府は、大名や高級武士たちを酒色に溺れさせる狙いから、廓を豪華な建造物とし、その遊女は当代の貴婦人とも思われそうな高級養女(太夫・格子)を据えた。太夫という高級女郎は、茶道、立花、書道、和歌、俳譜、弦楽を嗜み、『源氏物語』や『竹取扱語』、といった古典を通読し、さらに漢文を読めるほどであったという。当時は、多くの女に名はなく、女に文字は要らないとされた時代だったことを考えれば、彼女たちがいかに「エリート」であったかを窺い知ることができる。吉原の高級女郎(太夫)は、容姿が優れたばかりでなく、大変な学識教養があった。それはひとえに、徳川の思惑通り諸大名が堕落するように、幕府が用意したシナリオを辿るためのものであった。

 このように、遊廓の存在が、諸大名の散財だけを目的としたものであった時代には、太夫は相手を選ぶことができた。富豪でさえも太夫と遊ぶことは難しかったらしい。一度や二度の申し込みでは太夫をものにできなかった。会うまでに大変な忍耐を要するうえ、初会の日に顔見世をして再会を約し、‘千金 を積まなければならない。しかも彼女の気に入らないと振られたということである。

 そんな吉原が、歳月を追うにつれて一般町人にも足を向けさせるようになるのは元禄年間(16881704)のことである。高級武士や豪商らが景気よく廓遊びをしたのは元禄までで、それ以後の廓では一般町人を相手にしなければならなかった。「町人といっても、主として幕府の御用商人である。彼らは利権運動に利用するために、役人を吉原に連れていったのである」(石井良助『吉原』)

 吉原が‘大衆化【したのは、次のような理由によるものと思われる。

  1)武士階級の経済事情の退化と、江戸町人の台頭

  2)会場遊廓の一手専売権の下に、市中の私娼を大量に摘発して吉原に投入したために、町人めあてに安売りを始めたこと。

  3)頻繁な大火の度に吉原遊廓は仮営業をし、遊女遊びを安価にせざるを得なかったこと。

  4)私娼の続出に伴い、これに対抗するために遊女安売りの羽目になったこと。

 武士階級の経済状況が退化してしまえば、幕府のもくろみは達成させられたようなものだ。そうして遊廓の存在の主眼が幕府の策謀から経営者の金儲けへと移っていく。それが遊女たちの地獄の始まりであった。

 

 

3 吉原は9年に1回の割合で大火により全焼していた。廓が全焼する度に、一時、本所・深川・浅草・両国などの料理茶屋、寮、民家を借りて仮宅の営業をする。仮宅の営業であるから、すべて簡便であり、代金を安価にして、数をこなして稼ぐ仕組みをとった。廓は町人衆で大繁盛、楼主はこれに味を占めたのであった。

 遊廓の楼主を、「亡八=忘八」と呼んだ。中国古典にいう仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の8つの人倫を失った人面獣心の輩という意味である。妓楼では、楼主のことを親方と呼んでいる。この楼主の許に「遣手[やりて]」がいて、一切を仕切っていた。廓の遣手は、遊女あがりの老獪な女があたる。遊女に客扱いや寝床のサービスを教えたり、彼女たちを折檻したりした。また、遊客の品定めや不審な遊客の通報なども行っていた。この忘

八と遣手によって、哀れな女たちは生き血を吸われたのである。

 楼主は抱えの遊女を使っていかに遊客から金品を巻き上げられるかに腐心し、そのためにはどんな残忍なことでもやってのけた。まず遊女たちには十分な食事を与えない。おなかを空かせた娼妓たちが、客に媚び機嫌をとって、いろいろな御馳走をせびるようにするためである。

 初期は昼見世であった遊廓を、忘八らは幕府の好意措置に甘えることでまんまと昼夜営業に拡大した。しかも、初めのうちは1人の遊女が昼1人、夜1人の客を相手にするのが定めであったのが、仮宅営業時に数をこなして稼ぐことに味を占めた楼主らの強欲によって、女郎に一度に何人もの客をあてがうようになった。娼妓の体などおかまいなしである。

 「廻しといって五人でも十人でも客のあり次第に廻して相手をさせる。年のいたらぬ者に無理な勤めをさせ、色欲豪勢の大人の相手をさせ、病気もかまわずせめ遣う・・・」

(『世事見聞録』)

 忘八らは、”席内自治権”の名のもとに、悪辣な詐欺をほしいままにした。その主たるものは、遊女らを半永久的に縛りつけるための、架空の「借金」の仕組みである。楼主は、髪飾りや衣頚の代金はもちろんのこと、箪笥や火鉢といった廓の設備にかかる金までもすべて彼女らの「借金」として加算していき、彼女らが廃業できぬようにした。彼女たちの必要物資はすべて廓側が買い与え、その買値をごまかして「借金」を増やし続ける。女郎は、どんなにその体を売っても自分の手には一切金が残らない。それどころか、かえって借金が増えていったのだった。

 また、廓の楼主は、自分らの言いつけに従わなかったり、不利益になるような振る舞いがあろうものなら容赦なく女郎を拷問にかけた。その内容は、あまりにも非人道的なものばかりである。「遊女の一人や二人責め殺せないと一人前の忘八ではない」という言葉からも、その残虐さを推して知ることができよう。

 

 

4 やがて明治時代になり、「文明開化」を旗印に制度改革が進行していく。しかし、≪人身売買⇒遊廓⇒娼妓≫に関する限り、江戸時代そのままに引き耗がれた。それというのも、明治の志士や元勲らはすべて、遊廓で教育をうけて”性に目覚めた”男たちであったからである。高級武士のために造られた吉原遊廓が、のちに町人たちの遊ぶ世界になったとき、そこは江戸時代における「性教育の学校」であったらしい。なにしろ売春という稼業は、

幕府による保譲を受け、公に認められたものだったのだ。

 そんな調子で、明治維新といっても人権の思想すらなかった明治政府が、突然「娼妓解放令」を発布したのは明治5年(1872)のことであった。それはマリア・ルーズ号事件に起因している。

 ペルーの汽船マリア・ルーズ号が清国人苦力[クーリー]229名を乗せ帰国の途中、暴風雨に遭遇し船を破損したため、横浜港外に停泊して修理することになった。すると数日を過ぎて、1人の清国人が海を泳いでイギリス軍艦アイロンデユーク号に救助を求めた。その名を木慶という。彼の語るところによると、彼らは賃金労働の契約で乗船したが、事実は奴隷扱いで、船中の虐待も甚だしいというのである。翌日、イギリス側は神奈川領事を通じて、神奈川県に清国人を渡した。同県がペルーの船長ドン・リカルト・ヘレイラを召喚したところ、ヘレイラは今後親切に取り扱うからといって本人を引き取っていった。

 ところがヘレイラは約束に反して木慶に刑罰を加えた。アイロンデユーク号艦長は数日後、マリア・ルーズ号の船内の様子を将校に観察させ、暴行を加えていた形跡を認めた。イギリス代理公使R.G.ワトスンとアメリカ臨時代理公使CO.シェパードは、協議して、外務卿副島種臣宛に書簡を送り、マリア・ルーズ号に対する糾明を要望した。両国の強い勧告に、日本政府もその重い腰を上げざるを得なくなり、外務省管下の裁判として、参事大江卓を神奈川県令に任じ特命裁判長とした。

 この裁判は日本にとって、己の醜状を映し出す鏡となった。すなわちベルー側の弁護士デイッキンズが、「日本は我々の奴隷契約が無効であるというが、日本には娼妓という奴隷が数万人も居るではないか」と指摘してきたのである。大江はこれに対して、「日本は近々公娼解放の準備中である」と答えた・・・、この結果、国際関係上の体面もあって、青天の霹靂とも言うべき「娼妓解放令」が出されることとなった。

 しかし所詮それは体面を保つために出されたものに過ぎなかった。娼妓たちは、解放に涙を流して喜んだものの、正業に就くことができない。働く場がないのだ。そこで、生きるためにと、売春を希望するものが続出する有り様となってしまった。結局、この法令は、「遊郭」を「貸座敷」に、「人身売買」を「人身抵当」にと、言葉をすり替える役目しか果たさなかった。遊郭の部分だけは、明治になっても”御一新”することなく、むしろ資本主義の発達とともに陰惨を極めていった。

 また明治時代の女郎屋の繁栄をもたらしたものの1つに、戦争がある。出征兵士の慰安と称して、周囲のものが出征者を女郎屋へ送るのだ。次には戦勝したといって<酒と女>、今度は朝鮮を獲ったといって<酒と女>である。女郎屋は大盛況、楼主は大儲けだが、憐れむべきは娼妓である。楼主は、溢れるほどの遊客を捌ききるために、薄暗くした女郎部屋に幾人もの客を詰め込んだ。屏風でいくつも仕切り、煎餅布団を敷いて男たちを寝かせる。そして1人の女郎が順番に廻って用を済ませていくのである。

 文明開化が何だ。彼女たちは、いったい何なのだ。

 これだけ身を粉にして働いても、「前借金」とよばれる借金が増えていくばかりであったのである。その拘束期間は延びてゆくばかりで、永遠に抜けられない。

 ちなみに明治政府は、‘女郎買い’を市民権として認めていた。しかし若者同士の恋愛は犯罪として認めておらず、多くのプロレタリアの息子が嫁をもらえない境遇にあったことも、女郎屋繁栄の一因であるようだ。

 

 

5 この時代に辛酸を嘗めていた女性は、何も国内に限ったことではなかった。

 幕末から明治にかけて海外に出て春を鬻ぐ女を総称して「からゆきさん」といった。鎖国下の日本で唯一の貿易港だった長崎で、中国船のために設立された唐人屋敷に出入りした遊女を「唐人行[からひとゆき]」や「唐人国行」と言っていたのが、長い間になまったものだといわれる。

 海外に売られる女たちの殆どは、誘拐者の手によってさらわれ、密航させられたものたちであった。誘拐者は密航婦のことを「玉」と称し、器量のよいものから上玉・中玉・下玉と唱えた。誘拐者は彼女らを売り飛ばして巨額の富を得たばかりではなく、誘拐に要する密航費その他いっさいの費用を「借金」として彼女たちに肩代わりさせた。女たちは船底深く隠され、或いは石炭庫や空の給水タンクに潜み海を渡ったが(時には手違いから給水タンクに水を張られて水死した女もあったという)、密航した女たちの多くは異郷の露と消えている。

 誘拐者に欺かれて、または極度の貧困から、海外に渡って醜業婦となった女たちは、人に非ざる人と罵られながらも、望郷への思いは募る一方であった。売春婦誘拐業者は、そんな女たちに「国家の罪人」たることを思い知らせ、罪を償うためには1人でも多く客を取り1円でも多く嫁いで、祖国へ富をもたらすべきだと説いた。からゆきたちは、血の滲む思いで稼いだ金を「国家のために」喜んで出した。

 明治維新以後、富国強兵をスローガンに、西洋列強と互角にアジアの国々に進出するためには、国家的経済力は乏しかった。そこで採られた方法こそ醜業婦の利用だった。海外醜業婦たちが送金してくれる外貨は、輸出力の弱い日本にとって、最も手っ取り早い外貨獲得の道であったのだ。大日本帝国の発展の陰には、「からゆきさん」という醜業婦の大いなる力があった。実に売春業こそ、国家へ報いる行為であり、「愛国」の業とみなされたのである。

 

 

6 昭和期の女性問題といえばまず思い浮かぶのは戦時中の従軍慰安婦問題であるが、ここではそれについては割愛したい。今から述べようとするのは、敗戦南日本の内部の状況である。政府は敗戦後3日にして、アメリカ占儀軍将校にたいする「性的慰安施設」を、彼らの上陸に先だって至急つくろうとした。一般婦女子を守るために、「姓の防波堤」を築こうという発想なのである。しかも1人や2人ではなく、数千、いや数万の女性が必要であった。こうして、日本名‘特殊慰安施設協会’が発動することとなった。

 政府からの資金貸付の保証と慰安婦募集を認められた同協会は、さっそく接客婦募集を開始した。求人広告には、「宿舎・被服・食糧」と、魅力的な言葉が躍っていた。家を焼かれ、すすけた着物を纏い、東京の焼け野原を野良犬のように彷徨い歩いていた女性たちは、銀座にたてられたこの大きな求人の看板を、食い入るように見つめていたという。

 面接で仕事の内容を聞かされると、女たちはさすがに驚いたが、彼女らは幼いころから受けてきた教育によって、”お国のために”という言葉に弱かった。そうして、素人の娘ばかりが1360人採用された。

 そして占領軍進駐の日を迎え、慰安所も開店するのであるが、その盛況ぶりと云えば、「砂漠にオアシスを発見したかのごとく、喜々として行列をつくり彼女らに肉薄していったのは、けだし天下の壮観であった」らしい。そうした急激な性の需要を満たす為には、素人娘ではどうにもならなくなってきた。そこで協会では‘性の熟練者’としての元売春婦を探し始めた。新聞広告やポスターを使って大々的に現役復帰を呼びかけた。そのやり方があまりに派手だったので、警視庁もさすがに警告を発したほどである。これにより休業していた待合・芸妓屋は営業を再開した。慰安所はどこでも連日超満員であったが、特にゲーシャ・ガールに人気が集まっていた。

 だが、性病の蔓延により、”特殊慰安施設協会”は崩壊の道を辿った。

 一番惨めな思いをしたのは、銀座にたてられた「新日本女性」の広告で集まった女性たちであった。いったい「肉体の防波堤」とは何のことであったろうか。一部少数の女性を犠牲にして一般婦女子の危険を防ごうとするところに大きな問題がある。敗戦直後の混乱状態の中で、家を焼かれ、家族を失い、工場を閉鎖され、生活手段を失った女性たちを、政府は救うどころか、奈落の底に突き落としたのである。しかもそうして一部の女性たちを辱めておきながら、それでは実際、他の一般婦女子が危険に晒されることはなかったのかといえばそうではなかった。

 もし、ほんとうに「防波堤」を築くのならば、連合国軍に対して政府は最初から強く売春を許さぬ態度を取るべきだったのである。

 

 

7 その昔、女は男たちにとって何であったか。

 それは金儲けのための道具であり、性欲を満たすための道具であり、何れにしても利用すべき"モノ"であった。                    

 男尊女卑のくだらない風潮によって、女には長い間学がなかった。無知とは社会悪である。そんな中で、貧しい娘たちは何も知らずに売り飛ばされ、誘拐され、虐げられて、地獄の底で春を鬻いできたのだ。後女らは自分のからだを酷使して働き、そのうえ稼ぎをみな雇用主に絞り取られていた。何も知ることができなかった彼女たちが春を鬻いでいたのには、やりきれなさに憤りを覚えるのみであるが、それでは今日、女性も男性も同等の教育を受けられるようになり、細かな部分に関しても男女平等が叫ばれる時代を迎えて、なお春を売る女たちがいるのはどうしてなのか。男たちと平等であることを叫びつつ、なお”女”の価値を下げる、つまりは女は商品として視られても構わないと思わしめる行為が後を絶たないのは、なぜか。

 

 学問が許されるようになって、人は中途半端に賢くなってしまったのかもしれない。女は、以前は他人に利用されていた自分のからだを、今度は自分自身で利用することにより金を得ることを学んだのだ。初めそれは、生きるための知恵だった。しかし日本が経済大国となって、何をするにも金が必要となったとき、それか罪悪感を伴わずに蔓延していくことになるのだ。

 日本は豊かであるというよりは金持ちである。(現在はどちらも当てはまらないのかもしれないが・・。)心までが豊かであるとは到底言い難い。経済大国日本、「金さえあれ・」というその姿勢。それこそが現代社会の歪みだ。女は、金を得るためには自分を売ればいいことを知っており、男は、女を抱きたければ金で手に入ることを知っている・・・、極端に言ってしまえばこんな図式ができあがる。まあ、これは偏見であるにしても、春を鬻ぐ女が居るからには、買う男が居る訳であり、それを考えると、「買う男」の意識というのは、根底では昔から何ら変わっていないのではないかという気さえする。西洋の模倣をすることによって国内では売春を”悪”とする見方が一般的になった現代では、海外まで赴いて女を買う者がいるという。

 また、冒頭で触れたような安易な「性の販売」を可能にならしめたのは、この異常なはどの通信機器の発達であった。ポケットベルから携帯電話へ、それらの機器を用いることによって若者は簡単に家族から分離され得る。簡単なプライバシーの入手は、個人売春を難無く広めた原因であった。

 今日の日本にはびこっているのは、社会的な自虐趣味ではあるまいか。先の見えない不景気の海に溺れながら、いっそのこと死んでやろうかと自己を傷つけているのである。

 はやくマトモな社会になってほしい。子供、大人、現代はみな荒んでいる。‥その昔、売春が公然と認められた、おかしな社会があった。だが、そんな社会に終わりは来た。この歪んだ社会にも、いつか終わりが来るだろう。