シャーロック・ホームズとロンドン
田中正仁
1.都市ロンドンの歴史
本研究の目的は、世界的に有名な探偵小説「シャーロック・ホームズ」シリーズ(以下ホームズ物語)をもってロンドンという都市を読み解くことである。ここではまずホームズ物語が世に登場する1891年頃までの、都市ロンドンが経た経緯について述べる。
今日では大都市として成長したロンドンであるが、数百年前は今とは比べることができないほど小さな街であった。ロンドンの巨大化は16世紀頃から始まる。その最大の原動力はインド、及びアメリカの市場が開かれたことによる交易の急激な増大であった。これは大量の人口流入を招き、都市は過密化し環境は悪化した。当時の統治者は住民たちを出来るだけ田舎に追い返すなどの策をとったが、この流れを止めることは出来るはずもなかった。
17世紀に入っても、ロンドンの成長は留まらず、むしろ加速した。その規模は1700年において200年前の8〜9倍、イギリスの総人口の1割を占めるに至った。この時期には、ある歴史に残る大災害が起こった。1666年のロンドン大火である。1軒のパン屋から出た炎はロンドンを焼き払い、建物という建物を崩壊させた。街は大至急の修復の必要に迫られ、建築に関する新しい法的規則を作りあげた。これに基づいて修復が開始され、それが現在のロンドンの街並みと外観の元となった。このように、ロンドン大火は、ロンドンの建物を一新するという結果をもたらした。
18世紀に入っても人口の流入は衰えず、貧困とそこから来る治安の悪さ、悪衛生は依然として解決されない社会問題だった。これに対して、1730年頃からブルジョワジーたちによる社会改革が見られた。彼らは実際的な改革、例えば病院、救貧院、養老院などを建設し、救貧政策に努めた。こうした努力は、貧民増加の恐るべきスピードに到底追いつくものではなかったが、僅かながらも社会問題に対して解決を図る第一歩であったと言えよう。
こうした貧困の一方で、イギリスの国力は多分に増加していった。その理由は、拡大した植民地との大規模な貿易の確立である。これはイギリス植民地帝国の成立を示し、「商業革命」と呼ばれる。この「商業革命」は、紅茶や砂糖、たばこ、綿織物などの新奇な商品を大量にもたらした。これらが庶民の手が届くぐらい価格が下がるまでには少し時間がかかったが、イギリス人の生活はこれによって一変した。この変化は「生活革命」として知られる。
またこの頃は、都市文化的な施設の建造が盛んな時期でもあった。遊歩道、公園、イン、劇場、コンサートホールなどである。また同様に、商業用の設備が事業主らによって造られていった。輸送用の鉄道馬車やウォータールー橋などである。また大型の倉庫などが立ち並んだ。
そして時代は19世紀、ヴィクトリア朝時代に至る。まず述べるべきは4度にわたるコレラの蔓延であろう。ずさんな衛生管理を温床とし、原因の誤解に助長されて貧民街は大きな被害を被った。これに対して、1830年代から衛生改革が始まったが、やはりすぐには効果は出なかった。しかし、その後伝染病に対して着実に成果をあげ、1880年代からは死亡率が明確に下がり始めた。
社会基盤も近代化してきた。ロンドン開発会議によって、1860年代頃から上下水道が完備され、テムズ川に堤防が築かれ、街路、陸橋が改修された。また、鉄道、地下鉄が敷かれ、交通は大幅な発展をし、通信業も郵便・電報事業も始まった。このように、ロンドンは国際貿易と通商の一大都市としてその形を整えていった。
2.ホームズ物語の歴史資料的価値
これからホームズ物語を通して当時のロンドンを探る前に、ホームズ物語がはたして歴史資料として適切であるのか、ということについて述べた方が良いだろう。ここでは、ホームズ物語の歴史資料的有用性について、当時の探偵小説の流れも交えて論じたい。
探偵小説のはしりとされるエドガー・アラン・ポウの「モルグ街の殺人」が1841年に発表された。ポオはこの世界で最初の探偵小説において密室殺人と動物犯人という二大トリックを使用し、数多くの読者を虜にした。これ以降、ポオに続いて多種多様な探偵小説が生まれていった。
ホームズ物語が発表されたのは、「モルグ街の殺人」から約50年後である。この時既に例えばディケンズやコリンズらの手による素晴らしい探偵小説があったが、それらの中でもホームズ物語が特に歴史資料として優れている点は何か。
それは、ホームズが自らの足で実地へ赴いて調査をしている、ということである。探偵小説の本質的な面白さはその論理的思考にある。だがそれに多分に重点をおいてしまうといささか現実味に欠ける。その点、ホームズは凄まじい論理的思考を持つ天才型探偵であっても、事件現場や関係者の所へ直接出向いてありのままの現実に対して調査を行う。それには充分なリアリティがある。
重要なのは、それが今日の我々の目から見ても充分に納得できるような、科学的な調査であるということだ。当時の警察の警察の捜査ほうは犯人の自白待ち(あるいは自白の強要)が主だったのでこのような捜査は探偵のみ可能な方法だったと言える。この、現実に肉薄した、科学的な目で捉えたものは、当時を表すものとして充分に信頼が置けると言えないだろうか。
以上から、ホームズ物語が当時のロンドンを知る資料として充分に適切であると判断する。
3.通信−電報
ホームズ物語における通信手段といえば第一に電報が挙げられる。探偵という職業である、ということも多分にあるだろうが、ホームズは頻繁に電報を利用している。当時の電報はどのようなものであったのだろうか。
世界最初の実用的電信は1794年、フランスのシャップによって開発された。これに刺激され、イギリスにおいても電信設備が建設された。この後電信は改良が重ねられ、その性能を上げていった。そして、1845年に電信の普及を拡げるある事件が起こった。それは、パディントン駅の電信技手が、「パディントン行き7時42分の列車に殺人事件の容疑者が乗り込んでいるという電報をスラウ駅から受け取った。そして、犯人は待ち受けていた警官に難無く逮捕された、というものだった。この事件によって、電信はその有用性が人々に認識され、イギリス全土に電信網が整備されていくきっかけとなった。
このような電信の使われかたは、ホームズ物語の「5つぶのオレンジの種」にも登場する。殺人事件の犯人がある船に乗って航海中であることを突き止めたホームズが、港に向けて海底電信を放ち、犯人逮捕の手配を行うというものである。結局は船は難破し、犯人逮捕はならなかったのだが、もし電信がなかったらと考えると、改めて電信の便利さが伺える。
また、「緋色の研究」において、ホームズはアメリカのある警察署長宛に電報を打っている。この頃には既に海底電信によってイギリス−アメリカ間の伝達が可能であったのだ。
電報には配達が伴うが、そのスピードはどうか。それは、電報は受信後直ちに配達夫に渡され、その配達回数も一日に十回以上あり、速やかな配達がなされる体制がとられていたようだ。
普及の程度については、イギリスの総電報利用数を参照する。1869年には650万通だった利用数が、1887年には5000万通、1902年には9300万通まで増加し、その後は減っている。ホームズ物語は1874年(グロリア・スコット号)から1914年(最後の挨拶)に起こっているので、ホームズ物語の時期はは電報が大いに利用されていた時期であると言える。
このように、総利用数やその便利さから想像すると、当時の電報は今日の電話のように大きな位置を占めていたのではないだろうか。
4.交通手段−馬車、鉄道、地下鉄、自動車−
冒頭で述べたように、ホームズは事件の調査にロンドン中を駆け回る。その手段は主に馬車、鉄道及び地下鉄である。
ホームズの使う、ロンドンの交通機関で真っ先に思い当たるのは馬車であろう。霧と、ガス灯と、馬車。これらはホームズ物語において詩情をそそる。馬車にも種類があり、通勤に使われた乗り合い馬車やタクシーにあたる辻馬車、それに金持ちは自分の馬車を持っていた。当時は交通規制などなかったので、これらがロンドンを縦横無尽に駆けた。
馬車と同様にホームズが多く利用しているのが鉄道である。世界最初の鉄道は1825年に開通し、1836年にはロンドンに最初の鉄道が到来している。その後、鉄道網はロンドンから放射線状に延び、ホームズの活躍する19世紀末には約2万キロという、現在のイギリスを上回る長さの鉄道網が完成していた。
イギリスは鉄道発祥の地であるが、また世界初の地下鉄もイギリスから生まれた。歩行者と馬車によって道路が混雑を極めていた事を背景に、1863年に開通したメトロポリタン鉄道がそれである。初期の地下鉄はトンネル内の暗さ、悪臭などの悪条件が目立っていたが、事故もなく、また時刻表通りに運行されたので乗客は増え続け、線路も延長されていった。また、悪臭などの問題も少しずつ改善されていった。
ホームズはこれらの交通機関を利用してロンドン中の事件を解決していった。だが、ホームズの生きた時代を語るなら、自動車の存在にも触れねばならない。自動車は1900年代頃からイギリスの道路に現れたが、それより前の1830年代に一度実用化され、走っていたのである。これは蒸気馬車と呼ばれ、定期旅客輸送を行っていた。速度は32qと速く、輸送客数も上々で、まさに馬車に取って代わる勢いだったが、馬車業者の妨害や、また鉄道が急速に発展して交通機関として安定してきたこともあり、蒸気馬車は1850年代には姿を消してしまった。さらに、小型蒸気自動車に対しても赤旗法をはじめとする自動車に不利な法律が制定され、イギリスにおける自動車産業は滞った。20世紀初頭の自動車の再登場は、これらの法律の改正によるものである。
ホームズ物語に自動車が登場するのは「最後の挨拶」一遍のみである。そこには、引退したホームズがワトソンのフォード車に乗る姿があった。「じゃあ、エンジンをかけてくれたまえ」と言って走り去っていく老ホームズの姿は、馬車に乗って精力的に事件を追っていた姿と思うと、やはり一つの時代が終わり、それと共にホームズも去っていく、というような印象を受ける。
5.イギリス貴族とアメリカ富豪令嬢
「大英帝国の名家の支配権は、今や大西洋のむこうからやってくる美しい従姉妹たちの手にぞくぞくと移りつつある。...−中略−...セント・サイモン卿がカリフォルニア州の美貌の富豪令嬢ハティ・ドーラン嬢と近く結婚することが、このたび正式に発表されたのである。...」
これは、ホームズ物語「独身貴族」の、ワトソンが読み上げた社交新聞の記事の一部である。この話は、結婚式の途中で消えたハティ・ドーラン嬢の謎をホームズが解き明かす物語なのだが、あらすじはさておき、この記事から当時はイギリス人の貴族とアメリカの富豪令嬢との結婚が頻繁に起こっていたことが分かる。ここでは、この現象について述べたい。
イギリスの歴史に於いて、ジェントルマンとブルジョワジーというのは欠かすことの出来ないキーワードである。
この頃のジェントルマンは、変わる時代の中で地主としての力を失っていき、また自らの力を外部に示すための浪費がかさんでいき、経済的に苦しい立場に置かれていた。
一方、産業革命は巨大な資本家、ブルジョワジーを生んだ。彼らは「世界の工場」イギリスで富を蓄えた。財を築いた彼らが次に望むものは「伝統的な家柄」であった。救貧政策などの社会事業への投資という、本来ジェントルマンの仕事であることに介入するという事などからも、伝統的支配階級への同化志向が伺える。
このように、二つの階級はそれぞれの理由から結婚による同化を望んだ。彼らは季節になると各地で社交会を開き、交流を深めた。特に、ロンドンで行われたものは王室の大貴族も多数出席し、宮殿で舞踏会、音楽会が催される豪華で大規模なものだった。
ロンドンが貿易都市として発展してくると、この催しに色んな国の人々が参加するようになる。特に話題となったのは、金持ちで美しい(とされた)アメリカ人女性であった。アメリカの新聞は、社交期が終わると、彼女たちが射止めた著名人の名を列挙し、騒ぎ立てたという。
6.イギリス人とパブ
「一番近くのパブに行くべきだったんだよ。居酒屋というのは、田舎ではゴシップの中心だからね。お屋敷の主人からお手伝いに至るまで、あらゆる階層の人の噂が聞き出せるはずだ。...」
「ひとりぼっちの自転車乗り」において、忙しいホームズの代わりにワトソンが調査に出向くという場面がある。ワトソンは自分なりの調査をし、まずまずの成果をあげたと思ってホームズに報告したが、ホームズの評価はさんざんなものだった。「じゃあ、どうしろっていうんだい?」と言ったワトソンに対してのホームズの言葉が、冒頭の文である。
イギリス人は、一般に酒をよく飲むと言われる。具体的な数字は不明だが、1870年代においては労働者の収入のうち平均6分の1から4分の1が充当されたという社会調査の結果もある。そして、イギリスのパブは、単なる酒場ではなく、色んな機能を有していた。馬車の中継点という交通センターとしての機能、レクリエーションセンターとしての機能、社交場としての機能などである。しかし、時代が進につれそれぞれ専門の施設が出来始め、パブはその機能を減らし始める。そして、パブは大衆酒場として落ち着く事になる。だが、パブが社交場であることは変わりはない。やはり、酒場は色んな情報が飛び交っていたようである。
7.参考文献
シャーロック・ホームズ全集 コナン・ドイル 東京図書
詳説シャーロック・ホームズ 小林司、東山あかね 東京図書
路地裏の大英帝国 角山瑩、川北稔 平凡社
シャーロック・ホームズ讃歌 小林司、東山あかね 立風書房
アイラヴシャーロック・ホームズ 小林司、東山あかね ティービーエス・ブリタニカ
ロンドン年代記(上下巻) アンドルー・セイント、ジリアン・ダーリー 原書房