天皇制と日本社会:『少年H』をとりまく社会

芳賀菜々絵

 

 

《少年H》から導き出される私なりの興味と問題を前期レポートでは以下のように発表した。

        《少年H》の舞台である戦前戦中の天皇に対する日本人の認識

        当時の日本人に対する天皇教育の内容と目的

        天皇と人民の地位

        日本の開国と世界情勢・外圧

        太平洋戦争までの道程

上記の内容を詳細に調べたわけではなく、大まかに概観をなぞる程度の理解を示したのが前期のレポートだった。この冬季レポートとの関連性をもたせるために大まかに説明を以下にする。

まず、高校生の社会科で日本史を学んでいないために《少年H》の舞台になっている戦前戦中の日本人と現代に生きる私との間に壁を感じた。そこで当時を振り返る意味で天皇陛下教育を調べてみた。当時の天皇は現代の象徴天皇制ではなく天皇大権を有していた。天皇大権とは天皇が他国との講和・条約の締結、宣戦などを行う権限をもっていることをあらわしている。その他文武官の任免、さらには陸海軍の統帥権もこれに含まれる。一方国民に対しては、天皇に対するこうした認識を高めるべく教育勅語を基本にした忠君愛国が刷り込み教育された。また日常生活においても、思想の自由が憲法で謳われているのに反して、社会主義や天皇、政府に異を唱えるものは逮捕や投獄されたのもこの時代の特徴であった。このように19世紀後半から日本国民は天皇を頂点とした挙国一致体制をとるようになった。同時進行で富国強兵、殖産興業を実施して国力を高めた日本は日露戦争を機にアジアで注目されるべき軍事国となった。

そして前期では後の戦争における精神論や大義名分のもとになったのがこの愛国軍国主義教育だとの理解を示したあとに、富国強兵をせざるをえなかった当時の世界情勢を幕末から調べていった。このときは開国以来日本が外圧のみに明治維新を経たとの世界史視点をいれて歴史を見ていたが、あとから文献を読んでいくうちに日本内の体制矛盾も大きく関わっていたことがわかった。そこで前期レポートで概観を示すのみにいたった反省をこのレポートでは解消していこうと考えている。

徳川幕府の体制矛盾が,階級闘争をおこした。そして諸外国と対抗するだけの軍事力を持つためには幕府そのものの体制を覆すことが必要であった。しかし,江戸時代という封建社会の中でも近代化を受け入れるだけの教養や技術が養われていたことも忘れてはならない。以下江戸から明治に至る激動の時代変換をみていきたい。

レポート作成にあたっての参考文献を以下に記載した。

@        日本における近代国家の成立 EH・ノーマン 岩波文庫

A        謎解き近代日本史 野島博之 講談社現代新書

B         

明治維新の背景

19世紀初期にイギリスの第二次産業革命に端を発する資本主義経済は瞬く間に西欧を飲み込む大波となってアジア各国にまで押し寄せた。19世紀後半しにはインド、隣国中国()もイギリスを初めとする西欧の国々資本主義経済の犠牲となった。前期レポートでは日本の開国がこうした外圧によるところが大きかったと私は結論を出したが、開国に続く幕府の崩壊、明治維新という日本の革命と呼べる事件を考慮すると、開国以前の体制が多くの矛盾を孕み、それを破壊することで日本の近代化がはかられていったことがわかった。そこでここでは明治維新が起こるまでの幕府体制がいかなるものであったか述べたいと思う。そのうえで西欧からの外圧についても考えたいと思う。以下『 』内の記述が@からの引用である。

『明治維新とそれに続く時代の特徴をなした最も著しい現象のひとつは、封建社会から近代的工業社会への移行が迅速に行われたことである。中略。日本が封建経済の束縛を比較的容易に打破しえた理由の少なくとも一部分は@・封建社会の内部的危機A・西洋列強の圧力という二つの過程が偶然に結びついたことにある。』

このあとに筆者ノーマンは明治維新をもたらした環境を検討することが近代日本の暗黒期を縮めるに至ったか述べている。中国の場合にはこれが苦痛に満ちた長い期間であったということはあまりにも有名な話である。この日本と中国の比較の点については後ほど考えたいと思う。

以下徳川幕府の体制である。

1、封建制度の衰退

『徳川封建制は、17世紀初めに徳川家康が日本の国土の大部分にわたって一族の覇権を確立し、日本国土の三大島である本州、九州、四国のまたがり間接支配を行ったのに始まる。家康(1542〜1616)は、一系列の将軍制すなわち世襲的軍事独裁制という形において支配権を打ち立てたが、これによって最大の封建的閥族としての徳川氏は、政治の実権を握るとともに、半面では相応の恭順を示しながらも天皇と宮廷を京都のほの暗い僧庵生活のうちに押し込めたのである。将軍制府すなわち幕府は、もと源頼朝(1147〜99)によって朝廷とは別個の権力の座として樹立されたものである。それ以前に、たとえば蘇我氏、藤原氏、平氏などの権門が朝廷の政治を支配したことは日本の歴史上珍しくないが、幕府は天皇と宮廷の実権をすっかり剥奪した、まったく別個の政府を指すものであった。

したがって維新とは、天皇を主権者とし将軍を統治者とするこの二重制度を廃止し、天皇が主権者でありまた実際の統治者でもあった昔の制度に復帰したことを意味した。

この後期封建制度は、人間社会を厳格な階層的身分制度の型の中に凍結しようとする歴史上最も意識的な企てのひとつを示している。あらゆる社会階級、それからさらに細分化される全ての階層には、いずれも衣服の端から儀礼行動の細部にまで及ぶそれぞれ独特の規定があって、これらは刑罰の苦痛かけて厳重に守られねばならなかった。』

以下徳川幕府があらゆる方法をもって一階級の他階級に対する相対的優越を強調する政策をとったということが記述されている。以下はノーマン氏による鋭い指摘がうかがえる記述である。

『支配者達は外交政策と国内政治のいずれにおいても、商業階級の必要や利益に対するのとは対照的に、自己自身の封建的人生観に対してはきわめて敏感な関心を示している。幕府当局は1642年にスペイン人を、1638年にはポルトガル人を追放したが、それはひとつには西欧人が貿易を通じてあるいはカトリック宣教師の陰謀によって政治上の支配力を握るという危険を完全に避けるためであり、またひとつにはそうすることが通商よりも農業を重視する論理的帰結であったからにほかならない。1640年以後は一切の外国人と外国貿易が日本から締め出されたが、例外として長崎出島においてオランダと中国に限り厳重な監視のもとに制限された貿易を行う権利をみとめていた。こうして徳川幕府は日本を封鎖して外来思想の息吹が封建的な雰囲気をかき乱すのを防ごうとした。』

以下ではこのようにして確立された幕府体制やその一環の身分制度を細かく見ていきたいと思う。

徳川家・御三家・大名について

『幾重にも重ねられた身分制度のピラミッドの頂点に位したのは徳川宗家と、尾張、紀伊、水戸の御三家であって、将軍家は国土のほぼ四分の一に及ぶ領地を支配し、そのうちには大商業中心地である江戸、境(大阪)、とおよび長崎がはいっていた。徳川家の主な財源は年貢の取り立てであった。中略

そして日本の四分の三の国土は封建領主すなわち大名に分割されていた。これら大名のうち最初から家康に味方していたものすなわち徳川の世襲的家臣である譜代大名は全部で176家あり、家康の庇護をうけた。これに反し、関が原の没後はじめて服従した大名は長州毛利、薩摩の島津、仙台の伊達、加賀の前田のような裕福な領主をはじめとして86家あり、外様大名と称されていた。

幕府は巧妙な妨害と勢力均衡の制度にとって自己の保全をはかった。以下に記載するのはその一部である。

        幕府と外様大名のあいだに譜代大名を配置し、参勤交代の制(徳川家光による・1634)を完成させ全ての大名の領地と江戸に交互に居住させ、封土に帰国するにあたっては妻妾や家族を人質として江戸に残留させた。

        藩と藩が交渉することはすべて幕府のお咎めを受け、旅行は厳重な免許制度をもって抑制された。

        大名同士の婚姻関係は幕府の承認を得なければならなかった。

        城や濠の築造は幕府の許可を必要とした。

        諸侯は京都の宮廷と直接の接触を持つことを禁じられており、天皇さえも、慇懃ではあったが厳しい監視のもとにおかれ、その活動ならびにもろもろの儀式は幕府の定めた規則にしたがって厳重に制約された。

このように幕府は諸侯に対しては藩庫をからにしておくための財政負担が課され、幕府は財政を極度に圧迫させるような大工事の遂行を一部の大名に命じるのが常であった。幕府は上記のとおり諸侯の弱体化促進に手段を選ばなかったが、それでもなお佐津間の島津、長州の毛利、肥前の鍋島氏など西南の有力な外様大名を恐れる理由は十分にあった。これらの大名は関が原没の後に家康に従属せずにいるにはあまりにも微力であったが、それかといって幕府が彼等の半独立的な地位にあえて正面攻撃を加えるには強大すぎたからである。』

次に維新のさきがけとなった西南の有力藩を見ていくとする

『これらとざま大名の最も恐るべきものは南九州の薩摩藩であった。徳川家に対して等しく敵意をいだく藩に囲まれて居ることから、また封建社会における最大の財政収入と強い郷党心ならびに猛々しい戦闘力で知られている兵士をもっていることから、この藩は徳川家の支配に対する不平をあえて隠そうとしなかった。薩摩はまた近代兵器の使用と製造における先駆者であり、外国貿易禁令にも関わらず、琉球諸島を根拠地として中国と通商関係を保っていた。こうして外国貿易によって裕福になり、またほとんど海に囲まれていた薩摩藩は遠い江戸よりはむしろ南方海上からくる文明に多く期待の眼を向けたのである。貿易資本を蓄積し、主として軍事目的のために早くから西洋の産業を移植し、しかも幕府を憎悪するこの藩が他の西南諸藩、長州、土佐、肥前などの支持を得て、徳川の政治的支配権に対する攻撃の先頭にたつようになったことは歴史的に見てけっして偶然ではない。』

被支配者層である武士、商人、農民の階級矛盾

以下に幕藩体制の末期に徳川家を頂点とするヒエラルキーがどのように崩壊に近づいていったのかを記述してみたいと思う。以下の文章は@からの引用であるが、多少省略をしたところはご容赦ねがいたい。

武士の場合

『将軍および諸侯のしたに位するものは武士階級である。武士は俸禄の代償として領主に臣従の義務を負っていた。封建制度の初期段階では農耕者であった武士は、火気の使用とそれに伴う強固な築城防備の必要によって軍事制度に革命がもたらされると城下に集中し、耕地を農民の耕作に委ねることになった。1588年の豊臣秀吉による刀狩では農民と帯刀者である武士との身分区別が明確になると、武士はいっさいの生産機能から引き離され、いまや領主の命ずるままに戦闘をし、その俸禄を受けることになった。しかしながら、徳川幕府確立後、長い平和が続いたため、武士は尚武の気風を失い、無用の存在となり、ひいては実質上の寄生階級となった。幕府は武士階級の支持に依存したから、武士道を称揚し、他の階級よりも優遇するためあらゆる努力を払ったが、武士の立場が明らかに変則的なものになり、窮乏した領主が減俸を行うようになったため、武士の間に精神的動揺を生じ、忠誠心は弱まり、浪人が続出した。浪人の多くは西洋の語学や科学を学び、こうして日本海国の先駆者となったのであるが、半面大多数の浪人は、一歩ごとに影のように付きまとう幕府への憎悪にあふれ、維新の最も熱烈な闘士となっていった。

町民の場合

財政収入において農民に依存し、保護防衛を武士に仰いだ幕府は、町人階級にははなはだしい侮辱をくわえ、社会の最下層に位せしめた。町人は利殖のためには手段を選ばない非生産的な狡猾な階級とみなされた。町人は無数の瀬尾弦を持って拘束された。代表的なものに「切り捨て御免」があり、そのほか着物の着方や傘の差し方に至るまで細かい規制がもうけられていた。このように日本では商人階級におびただしい社会的拘束が加えられていたのにも関わらず、その経済力が増大するに伴い奢侈取り締まり令や贅沢を危険視する道徳的説教とは意味を失っていった。

商人階級は公的には社会階層の最下位に置かれたものの、封建社会において貨幣経済が自然経済、米穀経済にとって変わるにつれてしだいに重要な地位を獲得していった。やがて商人は幕府に臨時税を納めることによって大独占卸問屋を形成し、大名および武士階級の商人にたいする依存度は増していった。こうした中からやがて商業資本家が台頭してきた。このように名目上は社会の最下層にありながら、封建制度の網の目をくぐって諸藩の藩政において指導的地位にまでもしめた商人があらわれた。後に幕府は町人の経済活動に露骨な憎悪を示す事件もおこる。(有名なものに淀屋三朗衛門などの豪奢な米商人の家財没収事件がある。)町人の経済活動は封建制度の基盤に食い込まずにはいなかったが、商人階級は封建制度の内に深く根をおろしていたのでそれの打破のために闘う事はしなかったが、徳川政権が様様な制限を設けることによってこの階級の大部分の支持を軽んじたために、新政府出現の見通しがついたころから商人階級は多額の献金を行って旧政府を打倒する政治闘争を心から支持した。しかしこの闘争における商人階級の役割は消極的なものに留まった。

農民の場合

上記の封建領主,武士,商人からなる社会は農民を支柱として支えられていた。零細農業が幕府や諸侯の経済的基盤をなしていた。したがって封建支配者は農業生産の増加を奨励することに努力を傾けた。この努力は消極面では農民の離村禁止となってあらわれ、積極面では教説によって農業改善によって,または行政上の強制によって,要するに経済的・政治的圧力によって農業生産が奨励された。有名な「百姓は生かさず,殺さず,」という言葉は徳川農業政策の特質をよく言い表している。また、政治家は農業については不覚考慮下が,,農業生産者については考慮しなかったという意味のサー・ジョージ・サンソムの言葉も徳川の政策を巧みに言い表している。生産物の分配は伝統的に『四公六民』の割合になっていたが,「五公五民」ないし,「七公三民」とより多くが領主にとられることもまれではなかった。生産物の大部分を貢納賭して引き渡した農民にとって農作は多くの貢納の増徴を意味し,反対に凶作は飢餓を意味した。

日本農業のような集約農業構造においては農民は彼等以外の全階級の全国的な生活向上につれて,価格の昂騰する肥料や農具を購入せねばならなかったのである。多くの場合の農民は絶望的な状態に追い込まれ,土地を担保として高利貸から鐘を金を借りた。こうした高利貸にとっての絶好の機会は農民の繁栄のうちにはなく,むしろアジア的悲惨のうちに存在した。

課税と同じく課税のほかにも飛脚や人馬を徴発する義務が課せらた。割り当てられた人馬を差し出すことができない村落に対しては,法外に高い代償が要求された。

農民の生活条件は豊年煮においても悲惨そのものであったが,凶年に至っては言語に絶する動物的状態に陥った。だからいかに保守的な農民でもそれ以上の封建的な誅求に対してはもはや抵抗せざるを得なかったとしても不思議でない。抵抗には積極的と消極的の二つの形態があった。消極的な形態とは間引きの慣習をさし、これはきわめて広く行き渡り、徳川立法者の行政上の廉恥心と儒教倫理の威信を失墜させることになった。抵抗のもうひとつは農民の都市への逃散であり,これは飢饉の年にははなはだしく、官憲の制止も徒労におわった。積極的抵抗は言うまでもなく、しばしば生存水準以下にあった生活条件のため自暴自棄になった農民にとっての最後の手段,一揆であった。農村の凶荒が慢性化するにつれて、これら百姓一揆は頻繁かつ激烈におこった。幕末期には一揆は風土病のように広がり,これが封建制度の支配力を弱め,したがって倒幕政治運動の勝利をおおいに可能にした。』

幕府体制の崩壊

『農業生産者である農民の没落と貨幣経済の発達とは幕府ならびに諸侯の財政状態を悪化させ、ついには彼らを破産に落としいれた。しかもこの同じ過程は封建家臣団にも窮乏をもたらしたから、彼等はしばしば領主を見捨て,すでに述べたように,あるいは浪人,暴徒,追剥,山師となり、あるいは祖国を再建しようと感奮興起して、眼を国外にむける献身的な倒幕愛国者や学者となった。』

このように将軍であろうと領主であろうと主権者への忠誠心が薄れてきたことが明確にしめされた。

下級家臣と幕府当局のとの摩擦はますます激しくなり、それは政治闘争の形とならざるを得なかった。これら家臣たちは世襲的家人の地位から俸禄を受け取るだけの雇人になりはて、しかもその俸禄も衣食に当てられないほどすくなくなっていったという。彼等の功名心を挫き、社会保障を危うくするような厳重な幕藩制度に反対するのは自然の成り行きであった。経済の不安定がもたらしたのは封建的主従関係の崩壊だった。この下級武士団は討幕運動の先鋒をつとめ、維新に際して指導者達を生み出した。』

このようにみていくと武士を中心とした封建体制に革命をもたらしたのもまた武士階級ということがわかる。そこで次に幕末に支配階級であった武士が新体制へと変わる過渡期にどのような役割を果たしていったのか調べてみたいと思う。

幕末期の開国,明治維新という歴史の中でおきた社会体制の変換は革命とよんでもふさわしい。しかしこの革命である維新の中心に武士階級が立ち上がり、自らの特権を廃止していく形で時代を切り開いたことは驚愕に値するのではないだろうか。上記でも述べたが江戸の後期にあたって、武士は、特に下級武士などはその存在意義自体があやうくなり、幕府に仕えるだけではなく、西欧の学問を身に付けたり,技術を開発する側にまわったり、するものもでてきた。他にも多くの文献で武士階級が維新に際しては特権を捨てやすい環境におかれていたことが記されている。ここでも諸外国からの外圧は大きく関係しているので,それにも触れて以下ではさらに詳しく調べたいと思う。以下『』内はAからの引用

『開国から明治維新にかけてのめまぐるしい政治過程は、大小無数のドラマの中で権力が交代していったため、確かに『激動』という形容がふさわしいように感じられる。ただし、安政の大獄・桜田門外の変・鳥羽伏見の戦いなどの犠牲者の数を考えてみると,260年余りの徳川政権が倒れ,天皇を中心とする中央集権的な国家が誕生したという「革命」的出来事の割にはきわめて犠牲の少ない状態で事態が進行していったといえるのではないか。

戊辰戦争では,新政府側・旧幕府側あわせて8200人あまりの死者があったと推定されているが、これを外国の例と比較すると、たとえばパリで起こったパリ・コミューンの内乱(1871)では、一週間から10日の市街戦だけでおよそ三万人の死者が出たとされている。この点についてフランスの貴族政治家で歴史家でもあったA・トクヴィルはうまいことを言っているので,その一部をみてみよう。

 

貴族制は長い闘争なしに,その特権を放棄することはめったにない。その過程では,社会の階級間で和解しがたい敵意の炎が燃えている。

 

日本の場合はフランスとは事態がことなっていたようである。明治維新は「武士の革命」といってもよいものであり,江戸時代の支配身分であった武士は、スクラムを組んだ農民や商人といった身分の人々に革命的な手段でそれまでの支配的な地位を奪われたわけではない。「社会の階級間で敵意の炎が燃えている」という感じではない。自国の歴史であるがゆえに生じる当然視の傾向にとらわれない見解として、アメリカの学者TC・スミスの次のような意見も参考になる。

 

ヨーロッパ諸国の貴族制とは決定的な点で異なっているとはいえ,日本の武士階級は封建的貴族制のひとつであるが、単にその特権を放棄したのではなかった。それは自分で諸特権を廃止したのである。

 

@        不要となる武士身分

一般論として考えると日本が急速に近代化を進めようとするとき,国家にとって,武士という支配身分が邪魔になってくるという論理を説明するのはそれほど難解なはなしではない。

第一に,近代国家が国民皆兵を原則とする徴兵制を確立しようとすると,軍事力を独占してきた武士には存在理由がなくなってくる。

第二に,財政面の事情があげられる。明治新政府は,1871(明治4)年の廃藩置県で藩体制の解体に成功するが,その際旧来はジャンが与えていた武士=士族への俸禄を引き継ぐことにになる。華族・士族に対する支出は、国家財政の30パーセント程度にもなった。これでは近代化政策を遂行するうえの大きな障害になる。1867(明治9)ねん、新政府は華族・士族の禄制を全廃する秩禄処分を断行する。つまり武士は財政面から見ても重荷でしかなかった。

中略,近代国家にとって武士は政治的にも経済的にも社会的にも不要だったと考えてよい。しかし以上はあくまで捨てる側に論理である。捨てられる側の論理ではない。しかも武士を捨てる側に立つ政権内部の主力が武士だったのだから事態はなかなか複雑である。明治新政府の実質的な権力者が薩長土肥など西南雄藩の出身者で占められていたことはよく知られている。彼等の主審階層は侍である。ここで武士階級の人々が新政府を支えていたという事実があるならば,将軍ではなく天皇を中心とした中央集権国家を樹立したとしても,旧来のような士族の特権をそのまま維持しながら近代的な諸改革を行ってもよかったような気がしてくる。

一つ目の説明は近世の武士がそもそも特権を捨てやすい環境に置かれていたのではないか、という点からなものである。近世の武士は,土地を所有しておらず,基本的には都市生活者となって地方行政などで采配をふるっていた。彼等はすでに官僚的な性格を強めていたのである。この点はヨーロッパなどの支配階級と大きく異なっていたと考えられている。家格による制限はあったが,役人の選任や昇任にあたっては,家系や価格よりも専門的な能力や知識が優先されるべきであるという点では,武士の内部で合意がみられた。このために役職試験,職務説明書,適性報告書,役職手当,俸給表,役職俸禄などが考案されており,名称はどうであれ,江戸時代の役職システム自体、かなり近代的な官僚制の特徴をもっていた。西欧やロシアの封建貴族などにイメージされる,人格的・領域的な支配とは明確に異なる事態があったといってよい。維新の変革に遭遇した武士は、あたかも大臣が責任をとって辞任をするかのような感覚にとらわれたのかもしれない。中略このように武士は自らの特権を比較的静かに捨てていった。いくつかの士族反乱が気になるかもしれないが,それらも西南戦争『1877』以外は小規模なものが多く,また,発生地域も西南地方に限られていた。』

繰り返しになるが,武士は武門の職を担当する身分ではなくなったが,過去から蓄積してきた知識と学問をいかして政治・行政上の官職の保持者となるなど,近代化の過程で再編成を受けそれぞれの能力を発揮できる場所を見つけていったと考えられるのである。

さてもうひとつ外圧から説明したものもあるので以下に記載する。

民権派は明治政府と対立していたことで有名であるが,その指導者の大半は士族たちであった。1890(明治23)年には帝国議会が開設され,初期議会(1890〜94)が始まるが,民権派のメンバーは,「経費節減・民力休養」を掲げて民党連合「自由党・立憲改進党」を形成し,表面的には軍事予算の削減を要求して政府と激しく対立していく。しかし実際には,政府の提出した予算案中の軍事項目は,ほとんど削減されなかった。そうなったいくつかの事情に民権派の本音があったと考えられる。民権派が「経費節減・民力休養」というスローガンを実現させるために想定していた現実的項目は,実は不必要な官庁の行政費や高すぎる官吏の年俸だったのである。意外にも民権派が本当のところで軍事費に手をつけようとしなかったのは,彼等の持つ体外的な危機感によるところが大きかったと思われる。たとえば,1879年4月8日付けの郵便報知新聞「この時期の民権派の政論新聞」には、「一国の独立を維持せんと欲するもの,兵力に依らずして四手また,何をか待たん」と、はっきり示されている。もしも民権派が政府に対して徹底的な抗戦路線を歩んだのであれば,そこには多くの武士が流れ込んでいたのですから,必ずしも,武士は特権を静かにすてたわけではなという結論が出てきてしまう。民権派が政府に対する強力な反対勢力であったのは,確かな事実である。しかし、これまでの簡単な記述からわかるように,民権派は,日本を取り巻く環境の厳しさのなかで、あくまで政治的なリアリズムを忘れなかった政治勢力である。この面でも武士の抵抗は,少なくとも日本の対外的な独立が実現するまでは,深いところで抑制されていくことになったと考えられる。日本が対外的独立を達成するのは,日露戦争「1904〜5」後のことであり,そのひとつの時点として,完全な対等条約が締結された1911(明治44)年をあげることができる。開国からは50年,維新から40年以上の歳月が経過していた。全体として責任感が相対的に強く,能力も比較的高かった武士たちは,新しい体制に「敵意に炎」を燃やしている場合ではないことを当初からよく理解していた集団だったと思われる。』

まとめ

ここまで徳川幕府の体制矛盾をはじめとして、その支配者がわである武士を中心に調べてきた。上記にもあるとおり、徳川幕府という封建体制では農民の酷使に始まる財政難,つづく武士階級の存在意義への懐疑心が現実となり始めたころ,諸外国からの侵略が迫っていた。しかし浦賀にペリー来航の黒船事件が起きる前から、幕府の武士や九州諸般の武士階級たちは西洋の外圧を感じ取ったいたし、薩摩の藩主島津斉彬などは開国前から蒸気船の製造に取りかかり、成功している。諸外国に対抗するための近代化の知識を進んで取り入れ、国の存亡を察知していたのは間切れもなく幕府の体制矛盾の産物であった武士達であった。外来の文明を取り入れる際に日本人は、批判の前に実践をした。そしてその中でも武士は自分達よりも日本という国を考えていた。そしてやがて、近代国家という明治政府の前にいつのまにか武士たちはきえてしまった。たった100年前のことである。

前期の「少年H」という作品から戦前戦中の日本を学び、私は鎖国をして日本独自の封建社会から、西欧に肩を並べるまでの近代国家のなっていく自国の歴史を学んだ。近代化において、物質的なものの裕福さは重要なことであるが多くの批判も目の当たりにした。確かに日本は欧米の文化や技術を過信してきた部分もあるが文明というものを考えたときに貧困から人々を救う利器のすばらしさは捨てがたい。江戸から明治という新しい時代の中で日本人は変わったかもしれないが、変わらないものもある筈である。それは一体なんであろうか。

物質的に豊かになった今、私ももう一度日本の伝統と文化を見ていこうという気になった。武士の精神もそのひとつであったと思う。西欧の文明に触れたいま、伝統工芸や民間伝承など幅広い分野で、日本らしさを残していこうという人々がいる。私も今回の日本の近代化の過渡期を学ぶにあたって、様様な文明や文化と融合しながらこの日本という風土に中で息づいてきた何かに触れた気がする。きっとどこかに日本を豊かな国にしよう、というあの武士の意思が今を生きる日本人のなかにも生きているはずである。この演習を通して沢山の文献に触れた、孤独な作業であったが得た物はこれからの人生に示唆を与えてくれたものだと信じて、このレポートを終わらせたいと思う。最後に適切な指示を与えてくれた浦野先生と啓発しあえた演習のみんなに感謝の意を表したいと思う。一年間ありがとうございました。