『 太 平 洋 戦 争 』
水出 侑里
今から56年前の8月、日本はラジオから流れる天皇陛下の声とともに、ある1つの時代を終えようとしていた。国民がみんなラジオに向かって額を地面につけ、ラジオからのポツダム宣言受諾による太平洋戦争終結を告げる天皇陛下の声に耳を傾けていた。そんな光景は今の世の中からでは想像もつかないことだが、それが示すように当時の国民にとって天皇は神聖であり、崇拝するに値する存在であったようだ。しかし、それは本当なのだろうか、いささか疑問に思える。そんなに多くの人がそこまで1人の人物を崇拝するのも不思議だし、もし日本国中の人々が天皇陛下のことを神聖なものとみなし崇拝していたとしたら、それほどまでに人々を魅了することのできた天皇陛下とはどんな人物だったのだろうか。または、別に何か他の理由があったのだろうか。これらの疑問を解決する前にまず、太平洋戦争時代の国際的背景や日本の社会や人々の生活を調べてみる。
はじめに太平洋戦争はなぜ起こったのだろうか。
1921年11月、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの5ヶ国がワシントンで軍縮会議を開き、この会議で日本の主力艦はアメリカ・イギリスが10に対し6という比率で決着し、日本の軍部は激しくこれを非難した。海軍としてアメリカ・イギリスに対してせめて7割の比率でなければ国の安全は保障できないと考えていたからである。この劣勢を打開するべく、日本海軍は補助艦艇の攻撃力を強化する方針をとった。1930年、ロンドンでの軍縮会議において日本は主力艦、補助艦艇ともに6割に制限されてしまい、劣勢に追い込まれた。これに対して軍部はひどく憤慨した。1931年9月18日、関東軍は満州鉄道の線路を爆破し、これを口実にして軍事行動に移った。これが満州事変である。この時アメリカやイギリスは、中国の抗日活動を支持していた。その後日本は独断で、満州の資源を確保するために満州国を建国した。これに対してもアメリカ・イギリスは日本の中国からの撤退を主張し、国際連盟がこれを支持し、日本は国際連盟から脱退した。このため日本は国際社会から孤立することになった。そこで日本は工業力と豊富な資源に勝るアメリカを敵にするということは避けたかったが、やむをえず、ドイツ・イタリアと1915年に日独伊三国同盟を結んだ。日本は三国同盟を結べば、ドイツの強力な軍事力に驚いたアメリカを思うように操れると考えていた。そしてアメリカと和平協力を結び、中国からも撤退しなくてもすむと思っていた。それから日本は当時石油輸入量の7割をアメリカに頼っていたが、「南方資源を手に入れれば、アメリカなど恐れる事はない」と豪語した。また、日本国民も同様であった。日本が仏印南部に進駐したのに怒ったアメリカは対日輸出禁止措置をとり、続いてオランダも同調した。こうなると日本は南方を支配し自給自足となるか、アメリカに屈するかの選択となる。そこで日本は外交交渉にでた。一方アメリカは、まだ軍備が整っていなかったこともあり、4つの項目を日本に提示してきた。 1中国と満州からの撤兵。 2他国の内政に干渉しない。 3機会均等主義の維持。 4仏印からの撤兵。
ところが、この日米交渉の間にアメリカは対ドイツ戦への準備を整えてしまった。しかし、議会及び国民がドイツに宣戦を開くことは反対であった。そこで当時のアメリカ大統領ルーズベルトは日本にアメリカを叩かせて、世論を参戦へと導く事を考えたのである。それは、日独伊三国同盟により日本はドイツの友好国であり、日本に対し宣戦布告をした場合、同時にドイツ、イタリアに対して軍を送る理由になるからである。
1941年9月6日、日本政府は新しい国策を決定した。その内容は「アメリカに対し戦争の準備をし、並行して外交交渉に全てを託す」というものであり、会談が不調に終わった場合は戦争に突入する方針を決定した。10月16日、日米交渉に進展が見られないと感じた東条陸軍大臣は内閣を総辞職させ自らが首相となり、この時点で日本は事実上、対米戦への道を進むことになるのだった。1941年12月8日、真珠湾攻撃。
では第二に、戦争をしていた当時の日本国民の生活や社会の様子はどうだったのだろうか。1941年4月から小学校は「国民学校」と改称された。教科書の中身も英語がなくなったり、歌う歌が戦争を歌っている歌になったりした。教育の内容も変わってきた。というよりむしろ、教育の時間がなくなってきつつあった。小学校高学年になると全員、軍隊式の分列行進の訓練を受け、手旗信号やモールス信号も学ばされた。部活動の制限、音楽授業の廃止、農作業の手伝い、学校の工場化など、さまざまな事が変わっていった。また、このころから全ての物資が急速に乏しくなっていった。布が手に入りづらくなり始めて、子供たちは勉強道具のすずりと筆をつつむ風呂敷さえもなく、みんながみんなむき出しにして持って行っていたという。靴下もなく、みんな冬になると足袋をはくのだが、破れやすいうえに、鼻緒がかからない。その下駄さえも手に入れることができなくなったそうだ。理由は鼻緒の切れ地が無くなったからだ。そこでワラを編んだ草履が出回り出したが草履の裏側にリヤカーの古タイヤを縫い付けるのだが、その糸さえも土木建築用水準器の糸だったそうだ。
食糧不足もひどかった。飲食店はほとんど材料を手に入れることができずに、商品を出すことができなくなっていた。ある材料から作って売っても、その材料もすぐになくなってしまい、店を閉めざるをえなくなるのだ。それゆえお店は次々となくなっていった。お客さんも食べるのに必死だった。もし外食したければ、開店前から店の前に並んで待ち、中に入ると大急ぎで駆け込んで、食べ終わるなり表に戻って、また列の後ろに並ぶと、運のいい日は2回目も食べられるといった状態だった。
家庭でも食料難は一緒だった。どこの家でも必ずちょっとした場所を耕し、サツマイモやナンキンを育てていた。イモやナンキンのつるも堅い表面の繊維を剥いでから茹でて食べていた。空き地で採れた野菜を刻んで、小麦粉を練った団子を入れて薄い味噌味で食べるというものがあったが、これは町の家庭ではご馳走であった。たいていの家庭は蒸したサツマイモの何切れかが夕食だったのだ。それでも口にするものがあるだけでも恵まれていたのだった。町では食糧が手に入らないので、町の人はみんな農村へ買いに行った。これを当時の言葉で「買い出し」と言った。田舎に親戚やコネのある家はいいのだが、それらが全くない家は、たいてい母親が飛び込みで農家に馴染みの家を開拓した。サツマイモ・ジャガイモ・麦・キビ・ナンキン、それに木炭など、何でも手当たり次第、手に入ると肩に背負い、山道を何キロも何キロも歩いて運んだのだった。しかし、しばしば駅や街道の要所に経済警察が網を張っていた。これを「張り込み」と言い、買い出し仲間に情報が飛び交った。見つかると統制違反で没収された。たとえ張り込みがなくても、2度に1度は手ぶらで帰ることもあった。農家の人にお金は歓迎されず、大抵は物々交換だったから、出かけるときは押入れから探し出した品物を置いて帰ってくるときもあった。
国民学校では1942年頃から給食が始まった。初めの頃は大豆入りの米飯に味噌汁がついてきたがその後、固いパン2個に替わり、これに生味噌を塗って食べた。
しかし何よりも一番不足していたといえば、金属である。戦争の武器の材料となるため、国中から回収され、学生の制服のボタンまでも回収され、都会の学校では二ノ宮金次郎像までも回収されていった。
この頃の社会は言論の自由は認められていなかった。それゆえ人々は日本の戦力や天皇、政治についてむやみに口にすることができなかった。少しでもそんな場面を見られたり、噂が流れたりすれば、すぐに憲兵がやってきて連れて行かれ、徹底的に取調べられるのだった。
当時日本の社会、国民の中心的人物といえば、天皇陛下である。天皇陛下といえば神聖な現人神として、日常の生活の中でも学校でも戦下においてもあらゆる所で、日本人の心の中の大きな存在であった。たとえば学校において。日本の近代教育は、皇国史観による教科書教育と学校儀式を中心とした体で覚え込ませる教育を軸に展開してきたといえる。小学校が国民学校に変わったが、その教育目標は『国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス。』とされ、1941年から1947年に、新学制の小学校・中学校が発足するまで、わずか一年の寿命ではあったが、1945年の敗戦まではまさに戦争一色の学校教育であった。
登下校時には学校の天皇の御真影や教育勅語謄本や詔書を奉置しておく奉安殿に向かって最敬礼をし、その仕方によっては大声で注意された。国民学校の教科書の一説に『日本ヨイ国キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国。日本ヨイ国強イ国。世界ニカガヤクエライ国。』という文まである。そして全学年の教科書に天照大神、天孫降臨、神武天皇に始まる万世一系の天皇が治める神の国であることが説かれていた。学校の儀式でもそうだ。入学式・卒業式、学期ごとの始業式・終業式、四大節、春と秋の皇霊祭、陸軍と海軍の記念日…と、数多い儀式で毎回校長先生が教育勅語をその度に奉読するのだった。生徒たちはその間は首をたらして聞くのだ。
また、1940年の11月の「皇紀二千六百年」の式典も国中で盛大に行われた。戦場でも同様に天皇の存在は大きかった。たいていの兵が少なからず、「天皇のため、お国のために」と戦っていただろうし、「天皇万歳」と繰り返していただろう。
このように当時の日本の中心であった天皇だが、なぜ天皇が中心となったのか、なぜここまで天皇は国民の心の支えになりえたのか、実際の国民の天皇に対する思いはどうだったのだろうか。
そもそもの始まりは大日本帝国憲法にある。大日本帝国憲法における天皇の位置付けはどうだったのか。第一章第一条に「大日本帝国憲法ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。これは天皇主権を明らかにしただけでなく神のお告げ、神勅によって皇統一系、天地と共に無窮だという神話的な性格を表示したものである。第一章第二条は「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス」とある。この条文から分かることは、皇位継承方については男系相続であるという原則を表示するにとどめて、その実際を「皇室典範」に委ねたことである。そうすることで家臣の干渉するべきものではないということになるからだ。憲法における天皇の権力機構内での位置付けを考えてみよう。第四条は「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という。これが天皇権力の総括的な位置付けである。天皇の主権は祖宗の神々によって与えられたもので、天皇の一身に帰着して何者にも譲与分割されるものではない。したがって三権分立説などは国体と相容れない。しかし、その主権の行使にあたっては憲法の規定に従う。行使のある面については内閣や議会の援助や賛同を求める。だから専制君主とは違うのだといっているのである。そこで天皇は主権者であり、その地位の根拠は天孫降臨の際における天照大神の大詔にまでさかのぼるものとされていた。このような宗教的・神道的色彩をおびた天皇中心主義は、天皇や皇室に、宗教に代わる国民統合機能を期待した伊藤博文の構想に基づくものであった。天皇は統治権の総体、つまり立法、司法、行政の全てを総攬し、その機能は憲法により行使されるものとされた(明治憲法第4条)。立法権は帝国議会の協賛をもって天皇が行い(明治憲法第5条)、司法権は天皇の名において裁判所が行い(明治憲法第57条第1項)、行政権は国務各大臣が天皇を補弼した。しかし、議会の協賛を経ずに行使できる狭義の大権が広範に認められており、しかも、それらのうち国務大臣の補弼の対象外とされるものも多かった。明治政府は国民国家の統合のために、こうした天皇の権力を政治的だけでなく、社会的に徹底的に利用する専制君主制を作り上げた。明治期からの天皇制は教育を通じて全国民に深く浸透していった。この憲法において天皇の神権性が強調され、統治権の一切が集中されたのは、帝国憲法が目指したものが一面では破綻のない集権国家の完成であり、一面では民権運動にたいする一定の妥協と防衛線の構築にあったからである。
第一次世界大戦が終わり、世界の国々が戦争の反省から「平和・強調」とともに「デモクラシー」が国際社会で共通の理念となり、また、戦争の結果ロシア・ドイツ・オーストリア・ハンガリー等の君主制国家が崩壊した。明治以来「世界の大勢」を一つの大きな口実に、富国強兵と国家主義の政策を推し進めてきた日本にとってみれば、このことは大きな衝撃であると共に大正デモクラシーの一つの要因ともなった。たしかに、大正デモクラシーのなかで、天皇の実質的な政治的力は低下し、立憲主義的な変革があった。しかしそれにもかかわらず、大正デモクラシーが貫徹されず、むしろつぎには天皇制ファシズムの時代を迎えることとなるのもいくつかの理由があった。一つには、病弱な大正天皇の代わりに皇太子、つまり昭和天皇を新たなカリスマにする政策が支配層によって進められ、その結果、国民統合にあたっての儀式の役割が再確認され、昭和の儀式の演出につながっていくことになると共に、摂政となった皇太子にたいする国民の期待が高まることとなった。また、儀式の重視と表裏の関係として、天皇制に対する言論の制圧・取締前の体制整備が進められた。とくに「普通」選挙法と一緒に成立した「治安維持法」は、のちに猛威をふることとなる。天皇制ファシズム化は軍国主義・軍拡が進められていく中での財政問題の深刻化、日本国民の生活の破綻,さらに朝鮮・満州などでの民族的抵抗の拡大など、日本の帝国主義政策の拡大とゆきづまりのなかであらわれることになる。大正デモクラシーのもとでの政治は、基本的にはこうした路線を修正・変更するものとはならなかった。たしかに、立憲主義の思想が広められ、一定の政党政治の前進も実現されたが、その基盤となるものは帝国主義日本の枠を出るものではなかった。政党の民衆運動に対する警戒・敵視も強く、とくに第一次大戦後民衆運動が成長すると、政党による敵対・対立は強められた。こうしたことが、天皇制の改革を進めさせず、のちのファシズムにつながる一つの根本的問題だったといえよう。大正デモクラシーの残照は、これらの理由によりかき消されていった。日中戦争が始まり、戦争の長期化を避けられないと判断した政府は陸軍からの強い要望もあったため、国家総動員体制の確立のために国家総動員法の立法にとりかかった。その第一条は「本法ニ於テ国家総動員トハ戦時(戦時ニ準ズベキ事変ノ場合ヲ含ム)ニ際シ国防目的達成の為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スルヲ謂ウ」というもので、労働者の賃金・労働条件は規制され、物資の生産・供給・消費・移動・価格の決定、企業の廃止・合併,家屋・工場・土地の使用から収容まで勝手にできた。総動員物資の名において統制の外におかれたものはほとんどなくなり、違反には厳しい罰則があった。国家総動員法が人的・物的総動員体制であるとすれば、その思想的・精神的総動員体制を作り上げたのが「国民精神総動員運動」であった。このようにして政府は国民の全てを、天皇をカサに統制していった。教育勅語の暗誦、天皇の御真影の崇拝、国家君が代の合唱などにより天皇中心の国民道徳が作られていった。また、紀元節(「日本書紀」で神武天皇が即位した日)や天長節(明治天皇の誕生日)といった祝祭日によって天皇の存在は反復して国民の生活の中に行き渡っていった。そして、『八紘一宇』という天皇を中心として世界を一つに統合するという神がかり的言葉で表現したスローガンが叫ばれたのもこのころであった。戦争の長期化は軍需産業のいっそうの拡充を必要とした。莫大な軍事費用をまかなうために増税や国債の押しつけや、愛国貯金が行われた。前にも述べたが、戦略物資確保のため民衆の生活が犠牲となった。そして民衆の生活全てを支配していった。そうすることで天皇制ファシズムを貫徹し、総力戦体制の維持につとめた。こうした天皇制は戦争を重ねるごとに正当化されていった。また、日中戦争、太平洋戦争が始まると、天皇統治の正当性や永遠性を主張する皇国史観が学問と思想の自由を圧迫し、国体明徴運動がいろいろな分野での自由主義を押さえつけていった。
このようにして作り上げた民衆一人一人を支配する天皇制ファシズムができているなかでも、そのやり方の強引さ、理不尽さに不満を挙げる人も少なくなかった。その事例をいくつか引用する。
1941(昭和16)年、治安維持法は全面的に改悪されて予防拘禁制度ができた。そのために刑期終了後も獄中におかれたがなお、侵略戦争反対、天皇制打倒を貫いた人々がいた。野坂参三らは国外にあって、戦争と軍部に反対する統一戦線の結成を呼びかけ、反戦同盟を組織して命がけで闘った。
社会大衆党傘下の全日本労働総同盟が挙国一致の名の下に解散して産業報告会に
吸収され、農民組合も農業報告を唱えて解散するという情勢の中でも闘う労働者・
農民はいた。1942(昭和17)年9月古河工業日光電気精銅場所の徴用工15
00人の争議、同年11月日立製作所亀戸工場の賃上げ要求の争議、その他出版工
クラブ、磯谷鉄工所、日本火薬岩見沢工場、愛知の旭兵器、富士貨物自動車、川航
空の協力工場であった東洋製缶などで、侵略戦争反対を自覚した労働者の指導のも
とにサボタージュ、オシャカ戦術による生産減や待遇改善要求など、巧みな抵抗が
なされた。1944年の官庁統計によっても296件,一万人余が争議に参加した。
農村での小作争議も同年2160件、8200余人が参加した。敗戦の前年という
もっともきびしい情勢のもとでも、一方で敢然と闘った人々がいたことを忘れては
ならない。
昭和天皇と戦争のかかわりはどの程度であったのだろうか。
1941年の第一回御前会議(統治権を総覧した天皇出席のもとに、日本国家の重要政策・戦略を最終的に決定する会議)において、日本の外交は三国同盟が中軸であり、ソ連と即時開戦するべきである、と主張する松岡外相と南北への軍事行動は情勢の推移によって判断すると主張する統帥部とが対立した。が、そこは両者が妥協して仏印と奉に侵攻する南進策と、独ソ戦が日本に「有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題」を解決するという北進策を決定した。そしてこの決定は閣議決定以上の効力を持ち、戦争指導上帝国の国策となる。重要国策決定を政府と統帥部の合同会議で行い、政府に主導権がないのだった。この会議は回を重ねるごとに統帥部の意見を統帥部の意見を国政に反映させる場となって行った。9月の会議で「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於イテハ直チニ対米(英・蘭)開戦ヲ決意ス。」という『帝国国策遂行要領』を決定した。この決意の理由は、物資の漸減する日本には早期開戦が有利である、開戦時期を日本が決めて先制しそれを利用して長期戦に備える、などである。しかし、同時に「敵ニ王手ヲ行ウ手段ハナイ、・・・国際情勢ノ変化ニヨリ取ルベキ手段ハアルダラウ。」とも海軍軍令部総長は述べている。つまり、国際情勢の変化だけが日本の勝利を保証するというのである。 御前会議の前日、近衛首相が『帝国国策遂行要領』を天皇に報告したところ、天皇は統帥上の質問をした。しかも明日の御前会議で質問するという。そこで近衛首相はただちに両総長を呼んで答えさせることにした。天皇は、南方作戦は予定通りにできるか、上陸作戦はそんなに楽々できるか、天候の障害はどうするか、などと質問し、さらに「予定通リ出来ルト思ウカ、オ前ノ大臣ノ時ニ蒋介石ハ直ク参ルト云フタカ未タヤレヌテハナイカ。」と念を押した。この質問に対し参謀総長は日本の国が漸減すること、したがって国力のあるうちに開戦する必要のあること、困難でもやるべきだと述べた。ここで天皇は大声で「絶対ニ勝テルカ。」と質問した。これに対し「絶対トハ申シカネマス、而シ勝テレ算ノアルコトタケハ申シ上ケラレマス、必ス勝ツトハ申シ上ケカネマス。」と曖昧な答弁をした。しかし、天皇は再び大声で「アァー分カッタ。」と答え、その『要領』を認めた。しかし、天皇には心配事が1つあった。それは南方作戦中にソ連が攻めてきたらどうするかということだ。この事の質問にも強気の返事が返ってきたので「ソレハ安心シタ。」と天皇は答えた。天皇は戦争そのものに反対ではなかった。平和主義者としばし言われているようだが、むしろ私には戦争に深く関わっている気がする。1945年8月6日、広島に原爆が落ちたとき、こんな事を言ったそうだ。「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも広島市民に対しては気の毒ではあるがやむを得ないことと私は思っています。」なんと無神経な発言だろうか。その後、ソ連が宣戦布告してきて、さらに、関東軍の崩壊に動揺し、一転してポツダム宣言受諾へと態度を変えていった。8月9日の御前会議では指導者の間で和平派と本土決戦派とが対立した。それはポツダム宣言受諾にあたり、「国体維持」だけを条件とするか、それとも「国体護持」、日本軍の自主撤兵、戦争犯罪人の自国側での処理、保障占領不可の四条件を付すか否かでの対立でもあった。
10月未明まで及んだこの会議で、最後に天皇が「皇室、天皇統治大権の確認のみを条件」とすることに賛成する「聖断」を下し、ポツダム宣言の受諾を決定した。1945年8月15日、ポツダム宣言受諾。日本の長く悲しい戦争が終わった。
あれから56年、今だ天皇制や天皇の戦争責任問題について取りざたされることが多い。日本の歴史の中で最も大きな事件のうちの1つ、太平洋戦争。その大きな戦争を生きた人々にとって良しにつけ悪しきにつけ昭和天皇の存在は大きかったことに間違いないだろう。
<参考文献>
・ 歴史教育協議会編 「日本歴史と天皇ー古代から現代までー」大月書店
・ 「天皇と日本人」豊田有恒
・ インターネットホームページ「太平洋戦争」