戦争を学ぶ

                   島田信久

 

T.序章

 

 前期の演習の際に読んだ『沖縄−戦争と平和』(大田昌秀著、朝日文庫、1996年)は、過去から現在に至るまでの沖縄の問題点についてわかりやすく述べられたものであった。しかし、そのほとんどを私は知らなかった。特に沖縄戦の実態は、私にとって未知の世界といっていいほどであり、なぜ私は沖縄についてこんなにも知らなかったのだろうと痛切に感じた。そこで、中学校や高校の時の教科書をひっぱりだして見てみたが、そこに沖縄についての記述はほとんど見当たらなかった。私の無知は個人的なものであるが、日本の教科書や教育にも何か問題がある気がしてならない。

 本レポートでは、別枝篤彦氏の著書『戦争の教え方−世界の教科書に見る』を頼りに、まず日本と欧米諸国との教科書の差異に焦点をあて戦争についての新しい見方、教え方をとりあげる。さらに、そこから戦争とは何か、日本人にとって戦争を学ぶとはどういうことかを引き出し考察したい。

 

U.教科書の中の戦争

 

伝統的に各国は、その歴史教科書を通して自国の歴史での戦争の意義をとりあげてきているが、それらはほとんど個々の戦争の経過が主であり、またその解釈などもそれぞれの国の立場を重視して、ややもするとナショナルな色彩が強く現れやすかった。また世界を通じて人間同士の殺し合いや戦争があまりにも日常一般の出来事となっているために、多くの人びとはそれについて一種の不感症になってしまっているのではないかと恐れる。しかし現実は変わりつつある。社会科、あるいはその精神をとりいれた教科書が実施されている国々の教科書では、近年、戦争の取扱いは一層総合的になり、かつ視野も広くなってきているのである。1)

日本の社会科教科書では、戦争はいけないもの、人間はたがいに仲よく暮らさなければならないなど抽象的な記述で簡単にすませているが、日本以外ではそうとは限らない。「戦争」という章を設けたり、戦争は人間の愚行であると明確にきめつけたり、人間はなぜ相手を殺すのかという人類学的な原点まで遡ったり、始めて戦場へかり出されたときの若者たちの心理、また人間の武器生産への執念から遂には核兵器開発、大量殺戮をめざす狂気のような軍備拡張、またそれらに反発する人びとの動きなどを具体的な例で生き生きと描いているのである。そこには今までの教科書に欠けていた「人間的立場」からの追究があり、一貫して流れる戦争反対、強い平和希求の願いがある。現代の人類学者アーノルド・ゲーレンの、人間が生物学的にまだ未発達のもの、従って欠陥的存在としてとらえた所論に従えば、戦争による殺しあいなどまさにその欠陥性の最たるものとなる。しかし、最近の外国教科書の多くが基本的にはこうした考えから出発し、人間の歴史・文化は、その欠陥を補うための自己改造の努力であるというような理想に貫かれているのを見出したことは、むしろ一つの大きな驚きでもある。1)

 「戦争」と「平和」はまったく対立する概念である。トルストイもその大作の表題に「戦争と平和」を選び、国際法の父、オランダのグロチウスの代表論文集もまた「戦争と平和の法について」と名づけられているように、人びとは東西古今のあらゆる文学や哲学などの部門でこの二律背反的な問題をとり扱ってきた。しかし、一体それが「人間的」にはいかなる意味をもってきたかについての解明はまだ十分ではなかったかと思われる。ところが第二次大戦終了後、世界が恐るべき核戦争、人類滅亡の脅威に直面してから、このテーマはかつてないほどの深刻さで最近の外国教科書を支配するに至った。もちろん、戦争そのものの扱い方には各国それぞれの差異はあるものの、どこの国でも改めて戦争の意義を問い直し、平和への願いを自国の青年に教えこむのに真剣な努力を重ねていることは共通だといえよう。教育は一つの大きな理想である。たとえ現実はなお理想には遠いとはいえ、一歩一歩それに近づくことが大切であり、外国の教科書はあらゆる方法を用いて青少年の心を刺戟し、計画的殺人としての戦争を否定し、知的活動を促進して人間としての高い理想へ導こうとしている。1)

 

V.日本は教科書の後進国

 

日本の社会科教科書は、不幸にも長い伝統的教育の上に外からの要請によってにわかに継木をされたようなもので、まだ本質が十分理解されないうちに、政治的イデオロギーの論争の舞台に乗せられてしまった感じさえする。そこにまた日本の教科書や教育上の「日本的な」特質、つまり教科書というものはとにかくあらゆる事項を無原則につめこむもの、抽象的定義の丸暗記こそが重要で、内容の面白さ、生徒の学習意欲の刺戟、さらに教師と生徒が一団となって一つのテーマをとらえて討議することなどの無視が加わって一層問題の本質をあらぬ方へとそらしてしまっている。ことに教科書問題を論ずる人びとは、ただ目の前に並べられた日本の教科書を問題にするだけで、同じテーマを扱っても諸外国の教科書がいかに異なった形式や内容をもっているかについてはほとんど知らない。1)

欧米諸国と日本では、教科書の意義や作り方に根本的な差異があることをまず念頭におく必要がある。それは、教育制度や教育理念の差から発しているが、重要なのは教科書は教育の一つの手段にすぎないという考え方が強いことである。従って教師は教科書を使用しながら、それ以外にもあらゆる手段を尽して教育的効果を高めようとしている。これがある場合には他教科との総合(いわゆるコア・カリキュラム)の実施を喜んで行わせる原因となる。ところが日本ではコア・カリキュラムは歓迎されず、教師はひとつの教科(地理なら地理、歴史なら歴史だけ)の狭い視野のなかにとじこもり、しかも明治以来の伝統である教科書金科玉条主義を守ろうとする。日本の文部省は特定のイデオロギーに支配された執筆者による教科書の影響を心配している。その上日本では教科書に教育のすべてを委ねるという伝統的な考えもあるので、一層混乱を来しているのである。これらの点からみてまだ日本は教科書に関しては後進国とみなされる。こうした制度とともに注目しなければならないのは、外国の教科書の多くが、一般生徒の読みものとしての特色をそなえていることである。内容は面白く、ページ数も厚い。いわゆるケース・スタディに満ち、具体的な事例にあふれている。日本の教科書は限られたページにすべてを記述しようとするので、勢い抽象的、無味乾燥な書き方となり、形容詞はむだだとして削除され、骨だけで血や肉がついていないことになる。事実の誤りはほとんどないであろうが、読んでいておもしろいわけはない。それに比べて、他の国の教科書は教育的効果をめざす執筆者の情熱がつよく伝わってくる。事実の誤認は時にやむをえないであろうが、それをチェックするのは教師の仕事である。この点が大きな差異となる。1)

 アメリカの社会科教科書のうち政治経済分野に属するものの一つでは、「戦争とは何か」という単元を設け、戦争について大胆、かつ明快にさまざまの疑問を投げかけている。次にそれについて考え、討議させるための具体的な記述をさまざまな視点から行ない、青少年の判断の資料とさせている。「戦争はいけないものである」というそれだけの日本式抽象論ではない。教科書を読む青少年の心には大きな刺戟が与えられ、知的活動の契機が展開されることになる。日本の教科書にはこの力強さがまず欠けているのである。戦争はないにこしたことはなく、平和を欲するのは万人に共通な願いであるが、日本の教科書では人間存在の根本にかかわるこの大問題を、正面から一つの章や単元として取り扱っているものはまったくない。ただ日本の憲法とか国際問題のなかで適宜ふれているにすぎない。しかし戦争あるいは非戦争、すなわち平和の問題は、国家体制やイデオロギーをこえたものであり、人間・社会の原点として避けて通れない重大なテーマである。教科書としてもまともに切り込むべき優先的課題といえる。1)

 日本の社会科教科書の戦争についての記述の仕方は、目標と結論だけを教訓的に記述するだけのものである。それにはちがいないにしても、戦争は人類史とその古さを等しくする大きな現象である。なぜ人間同士戦わなくてはならないのか、戦争は単なる「国際間の不平等、不正」だけで起るのではない。もっと深く人間性に根ざした追究を必要とし、その多面的な論理的展開が学習者の知的刺戟となることはまったく無視している。また平和追求ための具体的な方法をどうしたらよいのかは何ら記していない。目標の骨格だけを与えるにとどまり、血と肉でそれを生き生きした姿に形成させる努力をまったく欠いているのが日本の教科書だったのである。

 日本のように各教科ばらばらの教え方ではとうてい「人間」の理解、「戦争」、「平和」のような綜合的現象は把握できないであろう。外国の教科書は、人間性変革に向ってとにかく大きな理想に進んでいるかに見える。外国教科書を一貫するもう一つの大きな特色は、それが具体的に興味深い例にみちているばかりでなく、本文を読んだあと、それに関連した多くの設問や、教室での十分な討論の実践を期待していることであり、そこに大きな教育的効果を望んでいることである。日本の教科書でも章節の終りに一応の設問はあるがお座なりなものが多く、実際の授業では無視されている。しかし外国のものは教科書の本文と同じウェイトや工夫を以て扱われている。それだけに教師側の勉強もまた要求されるわけである。この自主的作業のステップを踏まずには、国際的視野をもった世界人としての資格を得ることにはならぬであろう。1)

 

W.戦争とは何か

 

 生物のなかで同族たがいに殺しあうのは人間だけだともいわれているが、殺人の歴史はとにかく人間発生以来のことであり、そこでは親殺し、子殺しはもちろんのこと、血縁のものへの殺害も平然として行なわれ、また集団のなかでも、力の強いものがたえず弱いものを攻撃しこれを倒してきた。社会組織が発達してくると個人対個人の殺しあいに加えて、集団対集団の殺しあいがふえてきた。このような殺しあい、ある場合にはその拡大された結果としての戦争は、原始社会の人口調節の必要から生じたという有力な説もあるが、基本的には殺しあいを平気で行なえる無慈悲な習性が、人間の属性だったとも考えられる。人間は本来そうした欠陥的属性をもちながら、一方ではすばらしい進化と発展を遂げた矛盾にみちた存在ともいえるが、結局そうした「野性」から今なお離脱しえないのではないか。戦争についての教育もまずここから始まる必要がある。1)

 戦争というものは、何よりその結果として人間の大量殺戮と物資の大量破壊をもたらす人間社会の最大の事件ともいうべきものであるから、すでに古今東西を問わず、さまざまな人びとがさまざまな論議を展開してきた。戦争肯定論者としては、戦いは万物の父、諸法の王、戦争こそ世界進化の動機であると述べたギリシャのヘラクレイトス(紀元前6-5世紀)をはじめとし、人間の本質は野心と貪欲から成るので、その統治も「愛されるより恐れられること」を中核とすべきであると説いた「君主論」の著者マキャベリ(15世紀)、あるいは戦争は大規模な裁判の唯一の方法であるとしたフランスの社会思想家ブルードン(19世紀)があり、また世界は非合理性にみち、「われ他を攻めざれば他われを制せん」との根本思想を抱いていたドイツの哲学者ショーペンハウアー(19世紀)など幾多の人びとがあった。さらにこれに対し、戦争否定論をとる人びととしては、個人間の殺人は何れも処罰されるのに、民族・国家間の殺人である戦争は、処罰されるどころ賞讃の対象とされるのは何故かと述べたローマの哲学者兼政治家セネカ(西暦紀元前後)をはじめとして、「神の怒り」を著して当時のキリスト教的世界観を一つの体系にまとめたラクタンティウス(紀元3-4世紀)、下ってその「エッセー」で人間精神の偉大さを強調し平和を求めたフランスのモンテーニュ(16世紀)、さらにその影響を受けて「パンセ」において人間の悲惨さから宗教への道に救いを求めたパスカル(17世紀)、また19世紀初頭のナポレオンとの戦争を背景に、当時のロシア社会の描写を通じて戦争への嫌悪を強く表現したトルストイに至るまで、これまた思想家の系譜には事欠かない。そして現代に至っては歴史家トインビーの存在を忘れることはできないであろう。彼は戦争について歴史与える教訓の一つは、過去における文明の衰亡をみると、それら諸文明の進行のプロセスで古代的な戦争の方法がすでにその手に負えない、力に余るものになってしまっていたからだという見地から出発している。つまり戦争というものは、歴史的にみあたる一定の時期に、もう一般人の手に負えないものになっていたとするのである。しかも相次ぐ戦争は次第に多くの犠牲を文明の活力から要求し、ますますその破壊力を強め、ついには戦争をひきおこした社会そのものを破壊するに至った。その破壊は単に物質的なものにとどまらず、人間精神そのものの破壊であり、しかも戦争の技術に近代科学が利用されたことは、一層精神的なものの破壊と荒廃を増大させていると論じている。現代がこうした危機的状態に直面しているとすれば、学校教育でまずなすべきことは、戦争の意義をあらゆる点から分析し、考えさせ、これにどう対処し、またいかに平和を確保し、生命と文明の安全を守るかについて徹底的に教えこむことより外にはないと思われる。1)

 

X.戦争を分析する眼

 

戦争はなにぶん個人、社会、国家にとっての大事件であり、人類史を構成してきた一つの大きな流れでもあったから、昔からこれに関するさまざまな論議や思想が生れたのは当然であった。それは文学、芸術をはじめ、哲学、社会学、法学、歴史学その他あらゆる面でとりあげられてきたが、それらのうちで近代に「戦争」そのものの徹底的な意義を論じたものとしてはクラウゼウィッツの「戦争論」をまず想起せざるを得ない。クラウゼウィッツ(1780-1831)はプロシアの将軍であり、ナポレオン戦争をみずからも体験していろいろな功績を残したが、彼の名はむしろ戦場の軍人としてではなく、世界史上の多くの戦史を分析した結果著わした「戦争論」全8巻と結合している。彼はこの意味で近代軍事学の教祖的存在でもあり、その「戦争論」は、第二次大戦前、すでに日本でも翻訳され、出版されていた(馬込健之助訳、戦争論、上・下、岩波文庫、昭和8年)。その論著は哲学的、かつ難解な文章で記述されているが、まず戦争を理論的に考察する場合、第一にあげられるべき文献であろう。クラウゼウィッツの戦争論は今日なおわれわれに多くの問題を提供している。彼が国際法などは微力でとるに足らぬものであるとしたところは、なお当時の国際的協力の実態を物語っているのであろうし、また戦争の遂行にはヒューマニズム的配慮などは無用で、無慈悲な暴力行為が貫かれねばならぬとしていることなどは、職業軍人としての立場から当然の発言であろう。ただし戦争にはやはり政治が重大な関連条件をなすと言及している点は注目されるところである。東西両ドイツでも第二次大戦の勃発やその敗北は結局彼の教訓を学ばず、ナチスにひきずられて戦争のための戦争を遂行してしまったことにあるのを反省し、1980年のクラウゼウィッツ生誕二百年記念に当っては祝典を挙行し、「戦争論」の再評価を行ったということである。「戦争は政治の延長」という彼の主張を正しく実行し得なかったことを反省しているのであり、それには軍部を抑え得る卓抜した政治家の存在が望まれることになる。1)

 戦争論というとわれわれはすぐに西洋ではクラウゼウィッツを、また東洋では紀元前4世紀の中国の軍略家孫子を思い出す。孫子の著書によると、戦争はこれに従うものからみれば死か生か、いずれかの選択を迫られるものであり、またこれを行なう国からみれば国を維持できるかそれとも亡びるか、これまた二者択一の大事件である。とにかく戦争は人間にとって生死の分れ目ともなる最大の問題なのであるから、当事者たるものはまずこの点を十分に考慮しなければならぬとする。また人の怒りや恨みは、時とともに自然に治癒されて喜びの感情に戻ることがあるかもしれないが、死者は永久に再生の道はない。従って昔から明君、賢将といわれた人びとは戦争を深くつつしみ、恐れてきたのであると主張する。さらに行きあたりばったりの戦争をするものは必ず負けるという。また戦争の場合についていろいろな具体的な戦術、戦法をくわしく記しているが、根本的な思想は好戦的でないことにあり、戦争がいかに大きな犠牲を伴うかを論じて開戦をできる限り慎むことにあった。そこに戦争を説きながら、孫子には人生についての深い思索があり、戦争を超えた人生哲学の書として愛読されたゆえんである。彼の著書の出現はもちろん戦乱の絶えることのなかった中国の戦国時代という時代的背景があるが、これが中国や諸外国に伝わって兵書の模範として普及するに至った。日本には奈良時代に伝わり、ことに戦国の武将たちに好まれたことは周知の事実である。1)

 

Y.戦争を学ぶ

 

 「戦争」と「平和」とは対立する概念であるにも関わらず、なぜ平和についてではなく戦争について語られることが多いのだろうか。なぜ、「平和がないのが戦争」というよりも「戦争がないのが平和」というほうが、筋道が立っているように聞こえるのだろうか。その理由は、人類がその歴史の過程で、平和というあいまいな概念よりも戦争という具体的な事象に必然性を認めてきたからだ、と今回の研究を進めていくうちに私は思うようになった。では、われわれ日本人はどのようにして戦争を予防し、平和を維持すれば良いのだろうか。日下公人氏は、戦争を「道徳」レベルで考えてはいけないと鋭く指摘する。

−日本は敗戦以来、戦争を論じること自体、タブー視されてきたため、日本人は戦争について考える予備知識がまったくない。日本人は、戦争を「道徳」で考え、「個人の良心のレベル」で答えを出そうとする。これは、ほとんど宗教である。戦争には戦争の論理があり、法則がある。それを心得ていなくては、戦争の予防も治療もできない。もちろん、勝利を得ることもできない。それからもっと大事なことだが、国際外交ができない。外交は経済外交や親善外交だけではすまない。経済外交だけでなんとか暮らせた時代は終わろうとしている。これからの外交は、親善から戦争まで含んだ本来の姿に戻るのである。2)

 確かに、道徳は変化しうるものであり、集団ごとで異なることがありうるので、道徳で戦争を考えることは安易すぎるかもしれない。しかし、戦争を語る上で道徳は本当に必要ないのだろうか。その点で、カントの哲学を持ち出し、人間的価値を主張する坂本秀夫氏の言葉は心強い。

−カントは彼の哲学の至る所で、ザイン(であること)とゾルレン(そうすべきこと)を峻別している。が、私たちの問題では、この種の峻別が非常に大切なのである。というのは、元来、日本人は、長い間権力支配の下におかれていたせいか、既成事実に弱い。既成事実を否認して、正義を主張する、というよりは、既成事実を何とか正しいものに言いつくろってしまうという傾向もある。けれどももう一度カントに帰って、人間の動物的本能がどうあろうとも、それと関係なしに、何が正しいか、何をすべきか、という人間的価値の問題がある、と強調すべきであろう。わたしは、カントが、ザインとゾルレンを、〈事実問題〉と〈権利問題〉という法律用語を哲学に導入して用いていたことに注目したい。権利とは、もともと実現しているものというよりも、完全には実現されていないものを主張し、実現すべきものなのである。3)

 道徳や個人の良心は、たとえ答えを導かなくても、平和を訴える強さを持っていると私は思う。そしてその強さをもってすれば、戦争を後押しするような既成事実を否認し、正義を主張することができるはずだ。それでもやはり、戦争について考える予備知識が、日本人には欠けていることは事実だろう。21世紀を迎えた今日、日本に新しく生まれてくる子供の親に、戦争の体験を語れる人はまずいないと思う。だからこそ、若い人々の心を育成する最大の事業の重要な手段としての教科書は、事項の羅列をもってよしとする形式主義、伝統主義の結果のようなものであってはならない。教科書には、民主主義の思想に貫かれ、興味深く、学習者の思考能力を発展させるような内容が必要である。戦争と平和を、心をうつ豊かな記述、多様な材料、あるいは願いがあふれている書き方でもって学んでいけることを期待する。

 

引用文献

 

1)別技篤彦:『戦争の教え方−世界の教科書にみる』,新潮社,1983260p

2)日下公人:『人間はなぜ戦争をするのか−日本人のための戦争設計学・序説』,クレスト社,1996256p

3)坂本秀夫:『時代を見すえる平和と人権の教育』,国土社,1985230p.