現代の階層社会
宇留野 佳織
《はじめに》
今回、社会人間系基礎演習3をとり、まず前期に「歓喜の街カルカッタ」《三人の主人公の視点からインドの都市カルカッタのスラムの状況を語るノンフェクションとも言える作品》(上下有り、…現在は絶版、古本屋に有り)を読んだ。それをもとにインド社会の背景、歴史を調べ夏季レポートではそこから考えられる社会問題を3つ取り上げてみた。
一つ目は、階層問題。インドと言えば“カースト制度”。そこから、階層という問題を取り上げた。今日の日本で社会の問題だとみなされている受験競争、学歴、リストラ、若年失業者、外国人労働者などの事柄の多くが実は階層的現象と言える。(そもそもここで社会の問題と言わず、日本の社会の問題と述べるのはこのような問題は日本特有な物が多いからである。特に、受験戦争という問題は他の国ではほとんど浸透されていないことなのである。先日、高校卒業後アメリカの大学に進学した友人と話す機会があったのだが、アメリカの方では浪人≠ニいうような言葉はほとんど使われない…というより浪人≠ニいう制度がほとんど存在しないらしい。そのため、アメリカと日本の始業式の違い(アメリカは9月、日本はその翌年の4月)も相成り、その友人は一つ年下の人たちと勉強しているみたいで同じ学年で同じ年の子には会ったこともないらしい。)そこで改めて日本における階層差別について部落問題を中心に調べた。
二つ目は、児童の問題。世界の非識字人口の半数を抱えているといわれるインドでは就学年齢にあたる6歳から14歳までの人口は1億8000万人にのぼるが、そのおよそ半数の9000万人が労働の現場の戦力になっているという現実から、児童労働の現状を調べた。
そして三つ目は、女性。インドの歴史を調べていてかつての社会規範書『マヌ法典』のなかにラーマーヤナ≠ニいう言葉がでてきた。これは、ラーマ王子の妻シータの夫に対する献身が描かれたもので、夫の死後自ら身の潔白を証明するために火の中に身を投じたことから生まれた。この言葉から、社会学的に女性問題を調べてみた。
このような感じに夏のレポートを仕上げたが、今回はその中の階層問題について掘り下げてみようと思う。
まず、
そもそも、平等社会なんて幻想でしかない。人間は生まれながらに平等の権利を有し、能力においても互いの間に差があるとはなかなか認めたがらないものである。確かに、母親の体の中に宿されたときの生命は何者でもない一人の人の命として差はない。もちろん能力の差もほとんどない。しかし、ひとたびこの社会の中に飛び出してくると名字に名前がついただけでまったくの別格の人にもなりえない。例えば同じ年、同じ日、同じ時に生まれた二つの生命が社長の子供か部長の子供かで態度をコロッとかえられる。今の時代そのような建前なしでは生きていけない社会もある。あらためて考えてみると否定するわけではないが不思議な話である。しかし、法律では変なところで平等平等とまくしたてているものもある。
もうすでに一昨年の話になるが、某有名美容家・鈴木○○子さんが亡くなった。急な話で本当に驚いたが、もう一つ驚かせてくれたのは何と言ってもその遺産が80億にものぼることだった。さぞ相続する方は複雑な気分であろうと思う束の間相続税の話になり、それがなんと50億を越すと言うのだ。なんだか見たこともない額の話なのでピンとこないが半分以上が何に使われるとも定かでない税金としてとられていってしまうのだ。そして、その相続税というものを正当化するための言い分が人はみな平等であるから、遺産なんて棚からぼた餅のようなものなのだからそのような額を急に手にする前に経済的な平等と称して税金を取るのだ。
と、だいぶ話はそれたのでここで日本国憲法の第三の柱、基本的人権の尊重についても調べてみた。憲法前文103条のうち約その3分の1は基本的人権の尊重主義の規定で占めている。11条では「国民の基本的人権の享有と本質」…明治憲法で保障されていた権利は法律で任意に制限できる〈臣民の権利〉であったが,日本国憲法の保障する権利は法律をもってしても〈侵すことのできない永久の権利〉であることを特色とする〈基本的人権〉であると定め、同様に97条では〈人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの〉と定めている。憲法は、過去における人権抑圧に対する反省から、また諸外国における人権保障の成果に学び、20世紀半ばのもっとも充実した人権のカタログを整備しているのである。
そして、基本的人権の尊重の主義で最も知られていると思われるのが、14条第1項「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別されない」だ。〈法の下の平等〉は、すべて人は法律上平等に取り扱われなければならないという、近代憲法の基本原則の一つ。法の前の平等ともいう。つくられた法を平等に適用することであって、もっぱら行政権と司法権を拘束する原理だという説がある。しかし差別を内容とする不平等な法が定立されるならば平等は実現されないので、〈法の下の平等〉は法内容の平等をも要請する〈権利における平等〉または〈法律の平等〉を意味し、したがって立法権をも拘束するものと解すべきなのである。
平等とは法的に人を区別・分類または差別して異なる取扱いをしないことである。しかし人の生れながらの条件(人種・性別)や自己の意思で定まる条件(教育・財産)はさまざまであり、条件のちがいをまったく無視した絶対的平等は社会秩序を混乱させる。そこで〈法の下の平等〉はあらゆる分類・差別を無条件に禁止するのではなく、〈等しいものは等しく、異なるものは異なるように〉という相対的平等を要請すると解され,そして異なるものの法的取扱いにおいては、その比率の均等が求められた。しかし各人の具体的事情は千差万別であるから、厳格な比率の均等は無限の微妙な差別を内容とする法的取扱いを要求することになり、法秩序の破壊につながる。そこで比率の均等を考える基礎となり、平等原則適合性を判断する基準が探究せられ、合理性、恣意の排除、正義の理念などがあげられるようになった。つまり、正義の観念に反するような不合理な差別のみが平等原則違反となる。ただ、この基準は明確性を欠くため、かつてアメリカで人種差別の正当化に用いられた〈分離すれども平等に separate but
equal〉の法理が示すように、あらゆる差別的取扱いを合理的なものと合憲判断するおそれがある。したがって、とくに憲法のかかげる人種、信条、性別、社会的身分および門地による差別は、たんなる合理性の基準によって判断されるべきではなく、差別を正当化する重大な理由がないかぎり違憲となるといわれるのである。
以上のように憲法を調べていても、人が生まれながらにして自由であり平等であることは、あくまで憲法の規定の上のことであり、理念であることなのだということがわかる。また、二重線の部分でも分かるようにこれは社会的階層を認めていると見て良いのではないかと思う。
さて、
今まで階層、階層と繰り返してきたが実際には社会学的階級論というのはいくつかのヴァリエーションがあるのでここで簡単に見てみようと思う。
《生産関係説》
ここでは二人の社会学者がキーパーソンになる。ドイツの共産主義思想家であるマルクス。そして、マルクスの本を読みマルクス主義の仲間入りをしたロシア革命の指導者、ソ連社会主義の創設者レーニンである。マルクスの社会理論は階級を主軸にして構成されているけれども、その肝心の階級の概念は必ずしも明確に定義されているとはいえない。生産関係から階級を明確に規定したのはレーニンである。
『階級とよばれるのは、歴史的に規定された社会的生産の体制の中で占めるその地位が、生産手段にたいするその関係(その大部分は法律のよって確認され、成文化されている)が、社会的労働組織のなかでの役割が、したがって彼らが自由にしうる社会的富の分け前をうけとる方法と分け前の大きさが、他と違う人の大きな集団である。階級とは、一定の社会経済制度のなかで占めるその地位が違うことによって、そのうち一方が他方の労働をわがものとすることができるような、人間の集団をいうのである。』(レーニン、「偉大なる創意」)
社会経済的なこの定義の中でも、生産手段の所有関係が最重要の標識とみなされている。『資本論』ではとくに、「労働、利潤、および地代を各自の収入源泉とする、単なる労働力の所有者、資本の所有者、および土地所有者は、資本制的生産様式にもとづく近代的社会の三大階級をなす。」と明確にのべられている。
《勢力説》
ここでのキーパーソンは日本の社会学者であり、経済学者であり、歌人でもある高田保馬。
高田は「社会的勢力一般の質的類似によりて制約せられたるその数量的類似にもとづくところの集団」と定義するが、その場合社会的勢力には、権力(政治的勢力)、富力(経済的勢力)、および威力(文化的勢力)という三種類が含まれる。
彼の立論の基礎には、人間諸個人が勢力衝動にもとづいて争闘し合うという図式が横たわっている。彼の云う「力の欲望」とは、他人よりも大なる力を所有し、誇示し、行使する欲望であり、それが衝突し合った結果、支配服従の勢力関係が生ずるのである。そういう意味では、勢力は「服従せらるる能力」と規定することができる。ここにきわめてはっきりと優勝劣敗の思想が現れている。
《選良説》
人間の能力差に基づく階級形成の必然性について、最も明確に主張したのはエリート論である。エリートを「人間の活動のあらゆる部門において、大体試験の点数のように、各個人にその能力の指数が与えられると仮定」した場合、「各自の活動部門において、最高の指数を有する人々。」と規定し、さらにこれを政治的選良と非政治的選良とに区別している。無論実際には、各人の階級的位置を定める試験のようなものはないが、それに代わって、能力を表示するレッテルが用いられる。
能力の抜きん出ている階級をエリートと称するばあい、とかく教育程度や才能などの知的能力が問題とされがちであるが、現代のエリートは、これに加えて、史上かつてみられなかったほどの強大な組織権力を手中にしている。会社富豪または会社最高幹部、軍事的指導者、および政治幹部という経済的、軍事的、政治的エリート層によって構成されている。そしてこれらのエリート層は、それぞれ会社、軍部、行政府という重要な近代官僚制組織を基盤とし、また相互に癒着し合う事によって、強大な権力を一手ににぎり、中間層や下層大衆を思いのままに操っているのである。
《階層説》
アメリカにおいては、その開放的な階級社会を反映してか、移動性の高い「社会成層」の概念が支配的であり、それは社会階級と同義語となっている。社会成層とは、「所与の人口の階統的に累置された階級への分化」を意味し、「その基礎と本質は、社会の成員の間における権利と特権、義務と責任、社会的評価と社会的否認、社会的勢力と影響力の不平等な配分に存している。」それは経済的、政治的、職業的成層に区分できる。
アメリカの東部海岸地方の一都市を<ヤンキー・シティー>と名づけ、そこに六つの成層が認められるという報告もある。その成層とは、上層の上は伝統的な初期移民からなる「旧家層」、上層の下は急速の成り上がった「新興家族」、中層の上は町の指導層にあたる健全な「市民層」、中層の下は少数の」高熟練労働者と一般の会社員とからなる「プチ・ブルジョアジー」、下層の上は多数の半熟練および未熟練の労働者、下層の下はプェルトリコ・リコなどからの「新移住民」という構成が見られる。住民による地位評価からすれば、上層の上から中層の上までが普通より上の層、中層の下と下層の上が普通の人の層、下層の下が普通以下として扱われているのである。
《集団説》
「社会的階級とは、その超機能性、その強制的構造化への傾向、包括的社会の浸透にたいするその反抗性、他の階級と根本的な両立不可能性によって特徴付けられた事実的、距離的特殊集団である。」また、「階級は社会的闘争の集団であって、その決定要因は、支配団体の内部における権力の行使への参加もしくはそれからの排除のうちにみいだされる。」ものであり、それはまた、「支配団体の権力構造から発生し、かつこれに関連している顕在的もしくは潜在的利害を共有している諸個人の組織化されまたはされていない集合体。」とも規定することができる。
《意識説》
階級を外在的な区分とはみないで、個人の意識に内在する差別心理であるというみかた、あるいはそこまでいかなくても、階級成員が抱く欲求や心情に焦点を合わせて階級を捉える視点は、当然成り立つことができる。こういう立場は、一時は「客観的」階級論に対して、「主観的」階級論と称されたこともあった。
「生計をたてる過程は、人々に何らかの機能や地位・役割などを付与するのであり、人々は、その特殊な技術段階に応じ、それぞれ異なった職業や役割、さらには富や経済的・政治的権力をもつにいたる」が、こういう「職業・権力・収入・生活水準・教育・機能・知識・などといった基準によって区分される、社会的・経済的集団分類」がいわゆる階層なのであるに対して、階級は、「全く心理的な現象」なのである。「つまり個人にとって階級とは内在的なもので、自己が何物かに所属しているという感情であり、自己を自己以上の何物かと同一視することである。」
このように階層と言う問題は現代までに様々な学者によって様々な説が唱えられてきたのである。その他にも新しい階級構造のなかでもっとも問題性をはらむ「新中間層」については、数多くの分析がなされている。中でも私たちもよく耳にする言葉といったら、ホワイト・カラー≠ナはないだろうか。
《ホワイト・カラー》…専門・技術・管理・事務的職業従事者
《ブルー・カラー》…運輸・通信・採掘・製造・建設・労務作業者
《グレー・カラー》…販売・サービス・保安的職業従事者
ホワイト・カラーの基本的な生活条件は、自己の労働力を資本に売り渡すことにより生活手段をえているのであるから、ブルー・カラーのそれと違わない。ただ、ホワイト・カラーは物の生産に携わっておらず、むしろ「物の生産者を組織付け、その人間関係を調整し、生産物が消費者の手に渡るまでの過程に関与」している。またかれらは、相対的な差異にすぎないとはいえ、仕事の内容、収入額、雇用の安定度、権威、学歴などの点でブルー・カラーより優れ、少なくとも資本主義国では、相対的に高い社会的地位を占めてきたのである。
ところが、これらの社会的優越の基礎は、それが資本に依存しているかぎり、不安定であることをまぬがれない。ホワイト・カラーの職場に機械化・合理化が進展するにつれて、ブルー・カラーとの差異が少しずつ縮まったばかりか、境界そのものが不分明となり、今や両者の混交になるグレー・カラーの形成が説かれた。このような階層分けが存在すると何かしら問題が生ずるであろうとしらべてみるとやはり存在した。その名もホワイト・カラー犯罪=B
企業の経営陣・管理職など、高い政治的・経済的地位を有し、社会の上層部に位置する人々によって行われる犯罪を指す。職務上の地位を利用してその職務の過程において行われる横領・背任や、脱税、贈収賄、インサイダー取引、独占禁止法違反、経済法規違反、消費者詐欺、環境汚染などその例である。
アメリカの犯罪社会学者 E. H.
サザランド(1883‐1950)は、従来の貧困者や性格異常者など、社会から脱落した人々が犯罪を生むとする犯罪者観に対し、ホワイトカラーと称される社会的に信望を有する高い地位にある階層の者が、その職務の過程において、社会的に大きな害悪をもたらす逸脱行為を行っている事実を明らかにして、犯罪者観の修正を説いた。また同時に、個人ではなく大企業によって引き起こされる社会的に大きな害悪をもたらす逸脱行為が、伝統的な個人行為者による路上犯罪(殺人、放火、窃盗など)に比して、犯罪として取り扱われ、刑事事件として裁判に付されることは稀であり、企業犯罪=組織体による犯
罪が等閑視されてきたことを弾劾した。
近時、ホワイト・カラー犯罪の概念は、企業=組織体内部の個人がその私益を図って行う職務犯罪と、企業=組織体の利益のために行われる組織体犯罪とに分類して論議されることがある。前者には横領・背任罪などが、後者には独占禁止法
違反、消費者詐欺、環境汚染などが当てはまる。
これらの犯罪は、政治、金融・証券、不動産、建設業界などを動かす人々が、その職務上の権限・地位を濫用し、通常の経済活動を装い計画的かつ巧妙になされ,組織として不当な利益を得るものであるため,被害も大きく,経済秩序に対する
人々の信頼を損ね、政治行政に対する不信を招くなど顕著な害悪性が見られるが、企業あるいは広く国民が被害者となるなど、被害が拡散され被害感情が喚起されにくい面もある。また通常の経済活動に随伴して行われるものであるので、違法・
合法の区別がつきにくく、犯罪立証の上で困難を伴う場合が多いのである。
早稲田大学というと、日本の中ではそれなりに名が通っている大学であるが今の不況と就職難で、就職活動で大学の名前はほとんど通用しないといわれている。しかし、地方特に田舎の方の公務員になろうとすると表には現さないものの意外と学歴を重視する所も多々あるというのが現実らしい。このように日本の社会は学歴エリートというものが存在する社会なのである。ただ、勘違いしてはいけないことは学歴エリートはそうでない人より偉いと思うことである。社会学的に様々な階層分けがあることも、憲法上での平等の解釈の仕方も多々分からなかったことがあったが、それらの見解は決して人の上に人をつくろう、人の上に人をつくることを認めることは何一つ書かれていなかったことは確かなことである。
人の上に人をつくらず今回、階層問題を調べてみてつくづく心に念じる言葉であろう。