表現の自由と報道被害

森田 恵梨

 

私が夏季のレポートにて取り上げたのは、「ニッポン貧困最前線〜ケースワーカーと呼ばれる人々〜」というケースワーカーと生活保護者の話である。その第二部における事件、札幌母親餓死事件では、マスコミの世間に対する影響力の大きさが見受けられる。その事件における餓死での自殺者の死を、マスコミは一方的に福祉事務所の責任での死であると報道、バッシングし、当時の世間の福祉に対する印象を限りなく悪化させた。当時、ほとんどの新聞、雑誌、テレビなどが一斉に「福祉が彼女を殺した」と報道していたということは、昨今の事件等の報道を見ていても容易に想像できよう。しかし、そんな強大な力を持ち、世の中の風向きをも変えてしまうマスコミがいる一方で、そのようなマスコミに人権侵害等の被害を受ける人が存在することは事実である。そのような被害はなぜ起こるのか。これからのマスコミのありかたとは何か、考えてみたいと思う。

 

 

民主主義のわが国において、ニュース等の報道、その根底にある表現の自由はかかせないものである。そしてマスコミの発達には2つの要素が必要である。一つは、言論・表現の自由が保障されていること。二つ目は、マス・コミュニケーションを支える産業的・技術的基盤があることである。現在でも発展途上国の多くで、これらの要素が欠落しており、マスコミが発達しえない状況に置かれている。おかげで民主主義が成り立たない環境であったりするのだ。

 そもそも言論・表現の自由は日本国憲法21条「言論及び、出版の自由」において保障されている。これは1946年制定されたもので、第1項に「集会、結社及び言論、出版その他の一切の表現の自由は、これを保障する」とある。ここでいう表現の自由には、個人の意見表明をはじめとして、そのほかマスコミによる一切の表現行為が含まれている。単に意見を発表するなどの情報を発信する自由が保障されているだけではなく、それを収集したり、受信したりする自由も保障されている。それらすべて保障されてはじめて、「表現の自由が保障されている」ということができるのである。また2項では「検閲はこれをしてはならない。通信の秘密はこれを侵してはならない」とあり、検閲も絶対的に禁止されている。

戦時中には厳しい検閲が存在し、戦後この条項ができてからもしばらくはGHQによる検閲が存在していた。現在では、好ましくないと思われる言論には、言論で反論することが可能であるし、自由で民主的な社会の維持にはこれはかかせないものである。

そのような事前抑制は絶対に許されないが、表現の自由にはある程度の規制が求められる。日本では国家の安全や、社会の秩序の維持、個人の尊厳の尊重によって、部分規制されている。この規制根拠が世界の様々な文化的・宗教的判断において、国家により自由の範囲に差異が生じるのは当然のことであるが、かつての日本のような検閲が横行している国もいまだ多々ある。それでも情報ツールの発達にともない、情報の発信・受信が世界規模で行われるようになり、国内だけで通用するようなルールでは成り立たない場面が生じてきている。表現の自由という世界にも、国際基準が必要となったのである。そこで一部の猥褻表現や差別表現について、一定の国際ルールを設けるべきだと考え、その具体的なものが条約による国際的要請であり、人種差別撤廃条約4条及び自由権規約20条による差別的表現の禁止と、子どもの権利条約17条e号、34条c号による子どものポルノ表現の禁止である。そのような国際的な要請に応えることは規制の対象を広げ、特定の表現を禁止せざるをえない。条約の内容を見る限り、個人的には規制するべきものであると感じ、日本はこの面に関して世界的にもかなりの遅れているのではないかと感じる。しかしこれは、憲法が定める表現の自由とある意味で対立しうるものであり、慎重な議論が求められているのが現状である。

 また表現の自由を語る上で重要なのが、国民主権の理念を背景にした国民の「知る権利」である。マスコミの自由は受けての自由に支えられている。すなわち、国民の知る権利に応えるために、マスコミは“特権的自由”を保持しているのである。誰が彼らにこのような特権を与えたのだろうか。マスコミは立法・司法・行政に次ぐ“第4の権力”といわれるほど、彼らの力は大きい。私たち読者、視聴者は社会的関心、興味、好奇心を満たすべく、そのようなマスコミの力に頼っている。しかし、このような私達受け手の側の姿勢にも問題があるのではないだろうか。もしマスコミの自由が行使されなければ、公共の情報が私たちに十分伝わらなくなり、権力批判なども出来ないような状況が発生するであろう。しかし現在のようにマスコミの自由が濫用されれば、犯罪報道による犯罪が起こりうるし、報道による人権侵害も起こってしまうこともあるのである。それらを踏まえたうえで、公的情報の開示請求を市民の権利として保障され、情報公開制度も施行された。遅ればせながらも、国レベルでの情報公開が日本でもなされるようになったのだ。この制度の充実は、情報の共有化をすすめ、市民の目からは見えにくい、公的機関の動きも知りえるようになる。この制度は問題視される記者クラブを介しての私たちの情報受信の方法は変化しうるし、権力とマスメディア、マスメディアの社会的役割についても変化をあたえていくであろう。

 

 

ここで報道被害について考えてみる。メディアは、放送法、テレビ局の放送基準、NHKと民法の「放送倫理綱領」などにおいて、放送ジャーナリズムとしての「正確と公平」をうたっている。しかし一方、現場では、「報道の基本=スクープ」という考え方が多いのも事実なのではないのだろうか。そのようにして報道各局の競争が激しくなっていく。それゆえ行き過ぎた報道も多く見られる。このテーマについて調べるきっかけになった餓死事件の福祉事務所に対する一方的な報道も一部行き過ぎがあったであろうし、そのように報道の有りかたが問題となった事件として松本サリン事件が挙げられる。

1994年6月27日深夜に松本市にて、死者7人・被害者600人余りを出したサリン事件。テレビ・新聞各社はこの日から、競って第一通報者で本人もサリンの被害者であった河野義行氏を疑い、その後警察が事情聴取を繰り返したことで、あたかも犯人であるかのように大見出しをつけて事実に反する報道を行い、人権侵害を重ねた。当時、朝日新聞では「会社員宅から薬品押収 / 農薬調合に失敗か」と書かれ、読売新聞では「『あの家が・・・』周辺住民あ然 / 原因分かり安堵」などと報道されたのだった。そして1995年に入り、オウム真理教の一連の事件捜査が進む中で、松本での事件もオウムの犯罪である可能性が強まり、そうした捜査の進展に沿って、メディア各社は相次いで謝罪を行った。河野氏はその後の人権と報道を考えるシンポジウムにおいて、次のように語っている。

「事件当初、2 週間の報道で殺人者のレッテルが貼られた。全国民が私を犯人と思ったと思う。何か月間も無言電話や脅迫状が続き、サリンの不眠と真夜中の電話に苦しめられた。いったん疑惑をもたれ、犯人にされたら、個人でそれをはがすのは不可能。警察がウソを言うなんて思いもよらなかった。その信頼が2 日間の聴取で失われた。新聞もウソを書くとは思わなかった。間違えば訂正すると思っていたのに、すぐわかる誤報を1 年以上も検証しなかった。記者は、カメラ、ペンが人を殺す凶器になり得ることを自覚してほしい。私は今、たまたま生きている。」

警察とマスコミによる冤罪はこれからも繰り返されると、報道被害にあった河野氏は考えている。またこの事件において問題となることの1つに、報道記者の取材が自主的なものでなく、警察と記者クラブの癒着の構造に依存していることにある。警察がリークという手法で、記者に情報を流しているのだ。

 

もう一つの事例を挙げてみたい。1985年、一会社経営者であった三浦和義氏が殺人の罪などに問われた「一美さん銃撃事件」、通称「ロス疑惑」である。テレビ各社は、物理的証拠も公式情報も少ないこの事件について、週刊誌とともに警察を動かし、彼を逮捕させるところまでこぎつけた。しかし、結局98年、東京高裁は、殺人について無罪判決を言い渡し、マスコミ報道を判決文の中で次のように厳しく批判した。

    報道には、確かな根拠に基づいて報道する場合だけではなく、憶測を確かな事実のように伝えることもあること。

    しかもそのような報道が「嫌疑をかける側」、すなわち有罪視する方向で行われがちであること。

    報道によって作られた第一印象によって、公判廷で明らかにされた方が間違っているのではないかと誤解されかねないこと。

日本の主要なマスコミが、「週刊文春」による一般市民についてのスクープ報道によりこぞって騒ぎ始め、話を作り上げてしまった。犯人を作り上げてしまったのだ。そして警察はその報道に踊らされた。少なくとも、刑の確定していない被疑者・被告人に対しては原則的に、氏名を公表する必要はないのではないだろうか。報道被害の大きな要因が、また冤罪確定後の問題においても、実名報道・氏名の公表がポイントとなりうる。そのためには匿名報道が有効だと考える。

 この二つの事件とそれに伴う報道は、日本の報道史上最大級の不祥事だといえる。テレビ・新聞報道は、今後も多メディア時代に入りつつある中で残っていく上で、基本的な取材方法、報道の役割意識、そして組織としての形態の再点検をしなければならない。

 

 そのほか、2001年に入ってから起こった、3つの事件の報道についても見てみたい。

 1つ目は、新宿・歌舞伎町で9月1日未明に起きた火災。4階立て雑居ビルが焼け、客や従業員の男女44人が死亡した大惨事であった。この事件に対する朝日新聞の報道では、被害者の方は実名で、ある人は顔写真も掲載してあった。他の新聞社では、名前も顔写真も載せないところもあった。このような惨事の犠牲者の名前は通常報道されるものであろう。なぜ各社で差が出るような事態になったのか。おそらくこの雑居ビル4階等に入っていた店がいわゆる風俗店であったことによる配慮であろう。この店について朝日新聞では、ただ「飲食店」とだけ表記している。他の新聞社は、そこで死ぬことが不名誉だと判断した上で載せなかったのではないかと考えられる。実際、顔写真を掲載した朝日新聞社には、顔写真を出すことはプライバシーの侵害ではないかといった批判が寄せられたそうだ。私はそこで死ぬことが必ずしも不名誉なことだとは感じない。その店で違法行為がなされていたわけではないし、職業としても社会的に認知されているからだ。不名誉だと感じるのは主観的なものであり、メディアが決め付けるのはいかがなものであろうか。名前は安否情報としても大切であると思う。そのようなマスコミがもたらす情報が、事件の真相解明にも繋がる可能性もあろう。顔写真については必ずしも必要性は感じられないが、朝日新聞での報道で顔写真を見ると、ごく普通の人たちが予期せぬ事件でなくなってしまったことが強く感じられる。しかし、本人や関係者にとって、実名や顔写真を書かれたくないと感じる人もいるであろう。それは他の事件でもいえることであり、場合によっては報道による2次被害もありうる。国民の知る権利については前にも記したが、そこには書かれる側の人権も存在する。そのジレンマをどう捉えるか。この事件で提起された問題である。

 2つ目は、週刊誌取材での2次被害。これは沖縄で6月29日に起きた女性暴行事件で、米兵が強姦容疑で逮捕された。米兵は起訴事実を否認している。この事件においては性犯罪報道のあり方について問われた。被害女性が二次被害を受けたとして、人権擁護委員会に人権救済を申し立てたからである。性犯罪の報道については、各マスコミは被害者のプライバシー保護に努め、二次被害が起こらないようにしているものである。しかしこの事件の場合、米軍基地のある沖縄での米兵による犯罪であり、日米地位協定の改定にまで議論が高まって、事件に対する関心度が高くなり、過剰な報道がなされ被害者の心理的被害は大きくなった。マスコミは事件について各方向から分析しなくてはならないものであるが、性犯罪の場合、被害者を保護することから、警察からの発表に任せるものになりかねない。真実追求という点で問題が残るのである。前の事件でも述べたが、書かれる側の人権に配慮した場合の報道も難しいものである。

 最後にあげるのが、大阪の池田小学校で6月8日に起きた児童殺傷事件。乱入した男が児童ら23人を殺傷。大阪地検により、宅間守容疑者は殺人及び殺人未遂罪などで起訴された。精神鑑定により刑事責任能力を問えると判断したためである。この事件が発生した直後には、テレビ等による報道で、容疑者は実名、匿名、それぞれ分かれた。しかし最終的にはほとんどのメディアが実名で統一された。容疑者が以前に精神病院に措置入院したことがあったために、刑事責任を問われない可能性があるとして、一部では匿名にて報道されたのである。精神科への通院歴がある場合、実名報道にするか報道機関側にとって判断がむずかしい。そして過剰な匿名報道は、「精神障害者=犯罪者」というような風潮を引き起こしかねないという面もある。刑事責任能力があると判断されれば実名扱いが原則ではある。もしこの容疑者に刑事責任能力がないと判断されていたらどうであっただろうか。彼は無罪とされるが、このような事件を起こしたことに変わりはない。そんな事件を起こした人間の実名を知りたいと世間は感じるであろう。しかし、社会的制裁をあたえるために、実名報道をするべきではないであろう。マスコミはただ国民に真実を伝えるために存在するのだ。また、メディア・スクラムも問題である。これは大きな事故や事件等のマスコミ側の取材の際に、事件の容疑者や被害者、その家族や関係者に対して多数のメディアが殺到して、起こる報道被害である。この事件では小学校の被害児童へのインタビューや、救急車に収容される被害児童の写真、これらは被害者のPTSDにも繋がりかねない。一社ごとの取材では常識的な取材範囲であったとしても、このような大事件の場合、多くの取材陣による取材は取材される側にとって苦痛以外の何者でもない。それは事件被害者にとっても、容疑者の家族などにとっても同じであろう。

 

 

メディアの取材・報道責任や市民とメディアの関係を考える上で、このような報道被害の救済、あるいはいかに報道被害を出さないようにするかは重要な倫理の問題である。どのマスコミ業界もそれぞれにおいて倫理基準を制定はしている。しかしその実効性は必ずしも評価はできなかった。一部の例を除いて、その大部分はその規定を絶えず精査して、強制力をもってチェックしえなかったのである。ここで私が重要だと思うことはそのマスコミから発信された情報を受ける側の市民の有り方である。他人のプライベートを一方的に暴き報道するようなマスコミの姿勢を恥と思うこと、まだ真犯人かわからない人(法的に推定無罪)の私生活を暴きたてるようなことをよしとしない常識的な判断が求められる。

しかし一連の報道事件をうけて、1997年6月に放送界における自主独立した権利救済機関である「放送と人権等権利に関する委員会機構」(BRO)が設立され、「放送と人権等権利に関する委員会」(BRC)が活動を開始するなど、新しい動きも見受けられるようになった。ここでは、各放送局において解決に至らなかった事例が法律専門家・法律実務家・ジャーナリストなどから構成されるBRCで審議される。視聴者による放送局への苦情の申立てをし、解決しなかった場合にBRCへ申立て→審理→公表という手順で進められる。結果、放送に非が見られる場合には訂正放送を求めるなどの措置をとっている。また法務省の護推進審議会は、文書の提出命令や立ち入り調査などの権限を持つ人権救済期間「人権委員会(仮)」の新設を提言している。(2001年5月)マスメディアによる人権侵害の救済については、罰則を伴わない任意調査で対処するとしている。しかしこれにはいくつかの問題点がみられ、行政からの独立性が見られなく、それでは公権力による人権侵害へのチェック機能が果たせないのではないだろうか。メディアによるプライバシー侵害や過剰取材なども積極的な救済の対象とされたことについては、あくまでメディア側の自主規制に任せるべきだという声も高い。個人情報保護法など他のメディア規制の動きも見られる。報道被害は本来なら表現の自由と個人のプライバシーの問題であり、この委員会の主とするところは公権力の人権侵害から市民を守ることであるにもかかわらず、公権力が市民のメディア不信を利用して、メディア規制を強めているように見えてしまう。表現・報道の自由が十分に確保されるか、行政からの独立性はあるのか、公権力による人権侵害が実効的に救済されるのか。これらの点に十分留意した上で、この人権委員会の法制化の行方を見守っていきたいところである。今のところ、報道の自由が侵害される懸念はあるが、独立行政機関によるプライバシー侵害救済の道がより明確に用意されることに期待したい。

 

 

2001年に起こり、世界的に大きく報道されたアメリカでのテロ事件。事件後、国民の感情その他を考えた上で主要テレビ局は、旅客機が高層ビルに激突する映像の放送を自粛していた。しかし過剰だと思われる規制も見られ、ラジオ局では事件を連想される題名や内容の曲、反戦歌と思われるような曲まで規制するようなこともみられた。時に、戦争などにおいてもマスコミはその多大な力を発揮する。湾岸戦争時にも未確認情報が氾濫し、情報操作が行われていたそうだ。今までの事件などを調べていて、報道被害と呼びうるものは数え切れないほどあることが分かった。言い方を変えれば、どの事件の報道においても、何かしらの形で、誰かしら報道被害を受けていると言うことは可能ではあるだろう。どこからが報道被害と呼べるものなのか。マスコミに被害を受けた側に人権があるように、言論・表現の自由も民主主義には欠かすことのできない人権である。自分自身、いつ報道被害者となるかは分からない。時は21世紀となり、これからはますます多くの情報が氾濫しうる。インターネットでの情報提供等も大きな課題である。それに伴いマスコミがどのような自主規制を行って報道をしていくとしても、大事なのはその情報を受ける側である国民一人一人が、その情報を受けて何を感じ、どうするかである。どのような情報を求め、マスコミに何を求めるのか。これからもその有りかたについて考えていきたい。


  <参考文献>

     久田恵著 「ニッポン貧困最前線〜ケースワーカーと呼ばれる人々〜」文春文庫

     桂敬一他編 「21世紀のマスコミ」大月書店

     奥平康弘 「ジャーナリズムと法」新世社

     松井茂記 「マス・メディア法入門」日本評論社

     清水英夫・林伸郎・武市英雄・山田健太 「マス・コミュニケーション概論」が学陽書房

     鈴木みどり編 「メディア・リテラシーを学ぶ人のために」世界思想社

 

   <参考URL

     浅野健一ゼミ http://www1.doshisha.ac.jp/~kasano/

     メディアの辺境地帯 http://www.aurora.dti.ne.jp/~osumi/index.html