グローバライゼーションとローカライゼーション
山下英治郎
1 文脈
この惑星を星辰とともに走る人々がいる。故郷への根づきを失い、異郷・異国へとさまよい出で、複数の文化地理をわたり歩く彼らの運動こそ、世界史の絶えざる特徴でなくてなんであろう。
わたしたちの生きる今日の社会において、こうした越境者による国際移動はますます活性化されつつある。ところで、瞠目すべき重要な役割を目下演じつつあるこれらの人々を、単に移民なる抽象的範疇で括ることはおそらく正しくない。というのも、彼らはその生きられた個々の具体的情況において明らかに多様であるからだ。彼らはその経済的地位において多様である以上に、その民族的、文化的、イデオロギー的背景の歴史地理においてよりいっそう多様である。また、彼らの性的構成に関連して、最近の国際移動における女性の可視化を指摘することも重要であろう。フェミニストが絶えず強調してきたように、女性は従来歴史の舞台から隠されてきたが、このことは国際移動の経験的事例においてもまた同様であった。国際移動の主要な形式は長いあいだ専ら男性による出稼ぎ移動であり、女性はふつう故郷に残されるか、あるいは移動するにしても、家族の再結合のために呼び寄せられて移動することが多く、今日のように女性がある程度まで彼女自身の意思決定にもとづいて主体的に移動することはきわめて稀であった。
さて、わたしたちが今日、ニューヨーク、ロンドン、パリ、東京などでその出現を目撃しつつあるグローバル都市の性格を考えるとき、国際的に移動するこうした人々の存在は到底無視しえない重要な変数の一つになっている。グローバル都市のコスモポリットな環境は、わたしたちに、そこに引き寄せられた人々によって話される言語、実践される文化、生産-消費される商品などの、圧倒的なモザイク化を教えるであろう。そして、そのようなモザイク化こそ、階級、民族、文化、イデオロギー、性などを異にする多くの人々がそれぞれの仕方で可動性を行使し、構造的制約や心理的抑圧と交渉する過程をつうじて、都市空間に多様な差異を投入した結果にほかならない。しかし、グローバル都市の現実が明らかにするのは、そうした多様な差異を平和的に共存せしめ、漸進的に融合せしめる統合化の諸力ばかりではかならずしもない。社会成層の分極化や諸文化間の覇権闘争、あるいはそれらの地理的翻訳としての空間のバルカン化が示すように、グローバル都市の現実はまた、それが内包する多様な差異ゆえの政治的軋轢を不断に生み出す再断片化の諸力をも同時に露顕させつつあるといってよい。
ところで、上述したような国際移動の活性化とそれにともなうコスモポリットなグローバル都市の出現、ならびにその社会空間において統合化と再断片化の二力が絶えずせめぎ合う状況の背後には、それらを構造づけるいかなる文脈が横たわっているのか。その文脈を概念化するにあたっては、「時間-空間の圧縮」をめぐるD・ハーヴェイ(1999)の議論がきわめて有益な導きの糸を用意するように思われる。ハーヴェイによれば、「時間-空間の圧縮」は「挑発的で、刺激的で、ときにはひどく悩ませるものであるために、多様な社会的、文化的、政治的反応を引き起こす」(309頁)という。わたしたちは以下の本稿において、「時間-空間の圧縮」が不可避的に引き起こすさまざまな反応とその帰結を、グローバライゼーションとローカライゼーションの悩ましいせめぎ合いの観点から解剖し、わたしたちの時代を構造的に特徴づけていると思われる文脈の困難な問題性を明らかにしたい。次節ではまずグローバライゼーションについて論じることにしよう。
2 グローバライゼーション
世界が狭くなったという比較的素朴な日常感覚が示唆するように、わたしたちは今日、時間と空間の理解の仕方にまつわるある種の変化を感じつつある。そうした感覚はいわば、わたしたちの世界表象が「地球村」(M・マクルーハン)へと収縮的に再構成ないし再地図化されつつあるという感覚であろう。このような感覚を経験可能にさせる構造的趨勢をここではグローバライゼーションと呼び、それを次のように定義づけたい。すなわち、グローバライゼーションとは、世界の諸領域がより相互依存的に連結して高度に統合化された布置へと再構造化される一連の客観的諸過程である、と。試みに、こうしたグローバライゼーションの機制に関してもっとも特徴的であると思われるいくつかの現象を以下に指摘してみよう。
第一に、K・マルクスがかつて「時間による空間の絶滅」と呼び、ハーヴェイが「時間-空間の圧縮」として再定式化した物理的変化の新しい局面が指摘されるであろう。輸送手段の著しい高速化はもとより、とりわけ近年における情報科学技術の歴史的革命によって、わたしたちは今日、資本や情報、商品や人間などが空間を移動するのに要する時間の大幅な短縮と、それが引き起こす空間的障壁の圧倒的縮小を、過去に類をみない速度で経験しつつある。それから第二に、上記のような時間と空間の物理的圧縮に対応して、文化的相互作用の高度化が指摘されるであろう。時間的・空間的制約の克服にともない、異文化間での接触、交渉、摩擦がその量、速度、頻度、強度において加速度的に増大し、既定の文化的境界が流動化するにつれて、わたしたちは、諸文化の異種混淆化とそれがもたらす文化的種別性の著しい相対化を目の当たりにしつつある。
また第三に、全世界で同時に作動する高度に相互依存的な経済過程が指摘されるであろう。原料の調達から製品の販売、生産拠点の立地選定から資本の運用にいたるまで、あらゆる経済過程が、程度の差こそあれ、グローバルな展望との何らかの連関なしにはもはや十分に効率よく作動しえないことからも明らかなように、わたしたちは今日、旧来の国民経済がその前提にしてきた国内経済と国際経済との構造的分離が部分的に曖昧化し、両者の弁別がかならずしも本質的ではなくなるような新しい経済空間に直面しつつある。また、M・カステル(1999)にならって、このような新しい経済空間を「フローの空間」として特徴づけるならば、わたしたちはそのなかに、世界の諸領域を相互越境的に連結し、生産、分配、消費、経営などの配列形態を絶えず再定義する資本のフロー、情報のフロー、労働のフロー、商品のフロー、企業における意思決定のフローなど、さまざまなフローのグローバルな流通を確認するであろう。
そして第四に、上記のような諸現象に関連して、国民概念の脱神話化とその再概念化が指摘されるであろう。B・アンダーソン(1997)が教えるように、近代的概念の一つとして創出された国民概念は、現実には種々の位階とそれらのあいだの権力的不均衡性を含有するにもかかわらず、ある特定の文化的種別性を排他的に体現する一つの政治的共同体として不断に思い描かれ、境界づけられ、再生産されてきた。R・バルト(1967)がかつて「同じ一つの《自然な》ねり粉が《国民的》表現のすべてを塗りつぶす」(186頁)と書いたように、国民概念の原理的構築にはその内的同一性を認識論的に担保する神話的機制が不可欠であった。しかし、グローバライゼーションをめぐる先述のような諸現象の進行にともない、諸概念の内的同一性を明確に境界づける神話的機制の効力が相対的に摩滅し、それによって国民概念のイデオロギー的正統性が脱文脈化されるにつれて、わたしたちは、旧来の国民概念を脱神話化するとともに、それをより開かれた新しい成員性へと再概念化する必要に迫られつつある。
わたしたちが以上に指摘してきた諸現象は決して相互に独立的ではなく、むしろ緊密に連携し合いながら相互に影響を及ぼし合い、一つの構造的趨勢としてのグローバライゼーションを作り上げている。そして、広く認められるように、このようなグローバライゼーションは、第一に、わたしたちの世界表象にまつわる認知地図を本節の冒頭に記したような「地球村」へと急速に再地図化し、第二に、グローバルなリスクとしての生態学的危機や軍事的・地政学的安全保障、あるいは人権や貧困に関する困難な課題など、グローバルな位相において適切に解決されるべき人間共通の諸問題をわたしたちに覚醒せしめ、そして第三に、そうした諸問題の共時性に対応して、「新しい社会運動」のラディカルな台頭をもたらし、またそうした社会運動をつうじて、人々のグローバルな新しい連帯を引き起こしつつあるといえよう。
わたしたちはここまで、わたしたちの時代を構造的に特徴づけていると思われる文脈の一つの側面として、グローバライゼーションについて論じてきた。確かに、わたしたちの世界環境が高度に相互依存的な新しい布置としてのマクルーハン的「地球村」へと急速に統合化され、再構造化されつつあることは、いまや多くの人々が広く了解するにちがいない明白な現実である。しかし、W・T・ゴードン(2001)が記すように、「地球村」なる概念を提出したマクルーハン自身はそれに対して決して楽観的ではなかったという事実に、わたしたちはある種の深刻な隠喩を認めねばならない。マクルーハンが「地球村」なる概念によって提示しようと試みたのはこの惑星を包む込む調和と融合のユートピア的情況などではなく、むしろそれは、世界の統合化に対して分裂と紛争の楔を絶えず打ち込む再部族化すなわち再断片化への傾向であった。わたしたちの時代を枠づける文脈について考えるとき、わたしたちは統合化の諸力に対してと同等に、あるいはそれ以上に、再断片化の諸力に対してもまた十分な注意を払う必要がある。したがって次節では、本節で論じられたようなグローバライゼーションに対する不可避的反応として、ローカライゼーションに関する諸問題が論じられるであろう。
3 ローカライゼーション
今日の社会を生きるわたしたちにとって、はたしてグローバライゼーションは容認されるべき望ましい趨勢なのか。この問いを考えるにあたっては、F・フクヤマがかつて提出した「歴史の終わり」なるテーゼに言及することがある程度まで有益な議論を手繰り寄せるように思われる。共産主義の敗北とそれに呼応する自由主義の勝利によって普遍的イデオロギーにもとづくグローバルな闘争は事実上終わり、したがってここに歴史は終わった、と1989年にフクヤマが「歴史の終わり?」なる論文で論じたことは、その直後から起き始めた東欧諸国の相次ぐ民主化とソ連共産主義体制の崩壊をあたかも予告するかのようなきわめてタイムリーな出来事であった。しかし、だれもが知るように、1990年代以降の世界情勢は「歴史の終わり」よりもむしろ歴史の激動を招き、自由主義の勝利によって歴史は終わったとするフクヤマの当初の楽観的観測を大いに覆した。旧社会主義諸国が混迷の様相を深める一方、東西のイデオロギー対立によって封じ込められていた南北の緊張や民族・宗教をめぐる摩擦が世界各地で再燃し、またこうした混乱を押さえ込むことによって新たな世界秩序を樹立すべくアメリカを中心として行われた湾岸戦争以降の多くの軍事作戦が、その成功の喧伝にもかかわらず、ほとんど問題の解決をもたらしていないことは、いまや公然の事実としてあまりにも明らかであろう。
わたしたちはここで、右の議論における自由主義をグローバライゼーションのテーゼに読み替えることがおそらく可能である。フクヤマのように、自由主義的理念のローカルな企図をポスト歴史社会の普遍的語用論と見なすことが素朴にすぎるならば、グローバライゼーションのテーゼを新しい公共圏の指導的原理と見なすこともまた同様に素朴すぎるであろう。わたしたちは、グローバライゼーションの肯定的側面に特化して照準するあまり、その否定的側面に対する配慮を不当に欠くべきではない。それが容認されるべき望ましい趨勢であるか否かという問いに対しては性急な決定論を慎重に避け、その両価的性格のより適切な秤量を期すべきではあるまいか。試みに、グローバライゼーションの否定的側面に関してもっとも特徴的であると思われるいくつかの論点を以下に指摘してみよう。
第一に、移動性へのアクセス可能性をめぐる政治学が指摘されるであろう。「時間-空間の圧縮」による移動性の高度化はかならずしもすべての人々に対してあまねく均等に開かれた可能性ではない。高速輸送手段や情報科学技術への有利なアクセスはあくまでも一部の先進社会の限られた人々によってのみ享受可能な稀少資源であり、世界人口の大部分はいまなお高度な移動性への有意義なアクセスから相対的に遮蔽されたままである。グローバルなネットワーク体系に比較的参入可能な人々とそうでない人々とのあいだに認められるこのような切断を、浅田彰(1999)ならば「ポストモダンな『ネット』とプレモダンな『島々』への新たな分極化」(56-57頁)と呼ぶであろう。
それから第二に、第一の論点に関連して、グローバライゼーションの経済的便益を十分に享受しうる受益層とそうでない非受益層との両極分化への傾向が指摘されるであろう。高次な移動性へのアクセス可能性がかならずしもすべての人々に対して均等に配分されうる資源ではないように、グローバライゼーションが保証しうる経済的上昇もまた確率論的にランダムに配分されうる資源ではない。わたしたちがあらためて認識すべき重要なことは、J・H・ミッテルマン(2002)が述べるように、新自由主義的グローバライゼーションの主な受益層がいくつかの有力なTNCと、それらのTNCと戦略的に提携しうる一部の比較的優位な国内企業の成員に限られる一方、それらから取り残された大多数の人々がグローバルな経済競争の敗者として暴力的に烙印化され、相対的に周辺化された経済生活を余儀なくされているということである。とりわけ、極度に剥奪された一部の非受益層の周辺化は断片化された閉鎖領域への空間的・社会的隔離を促し、またそうした隔離化を契機として、富裕な受益層に対する貧困な非受益層の不満を急進化させるであろう。
そして第三に、文化地理の急激な脱文脈化によって惹起される存在論的不安が指摘されるであろう。文化的相互作用の加速度的増大によって引き起こされる諸文化の異種混淆化とそれに引きつづく文化的種別性の相対化は、なんらかの地球文化的アイデンティティの創発を直ちに意味するものではない。むしろ、そうした文化的相互作用の急速な増大は、特定の文化地理への自明な準拠によって安定的に基礎づけられてきた集合的アイデンティティの存続維持可能性を攪乱し、またそうした攪乱をつうじて、みずからが帰属する文化共同体の歴史的景観から相対的に切断された寄る辺なき自我を存在論的アノミーに誘導しつつあるといってよい。
わたしたちが以上に指摘してきたグローバライゼーションの否定的側面に対して、主に脱権力化された非受益層の側からきわめて広範な異議申し立てが湧き起こりつつあることは、世界各地の街頭で高揚しつつある反グローバライゼーションの示威運動を見れば直ちに明らかであろう。このような異議申し立てを惹起させる一般的趨勢をここではローカライゼーションと呼び、それを次のように定義づけたい。すなわち、ローカライゼーションとは、統合化を指向するグローバライゼーションの推進力に対して調整的あるいは対抗的に作動する再断片化の諸過程である、と。試みに、こうしたローカライゼーションの機制に関してもっとも特徴的であると思われる戦略を以下に二つ挙げてみよう。
第一に、ローカルな場所を美学化する一連の戦略が挙げられるであろう。広く見られるように、愛と笑いに満ちた相互扶助的コミュニケーションがそのなかで営まれる本質的によき空間としてローカルな場所を象徴的に意味づけたり、あるいはその場所に固有であると信頼される集合的記憶のグラスルーツ的動員をつうじて伝統の再創造やトポフィリアの再教育をイデオロギー的に企てたりすることによって、わたしたちは実存上の不安や疎外を厚く手当てし、文化的尊厳に満ちたローカルな共同性を精力的に再主張し始めている。それから第二に、第一の戦略に関連して、ローカルな場所に基礎を置く地域的抵抗の活発な組織化が挙げられるであろう。こうした抵抗の形態として想起されるのは公然と表面化する同盟罷業や示威運動ばかりではかならずしもなく、日常生活において個人的あるいは集合的に実践される公然とは表面化しない抵抗の形態にもまた十分な注意が払われねばならない。たとえば、ある社会環境において、周辺化された民族集団による伝統衣装の着用が例証するように、象徴的記号を政治的に活用する寡黙な戦術もまた文脈しだいでは有効な抵抗として作動するであろう。
しかし、わたしたちはここで、ハーヴェイやカステルがこうしたローカライゼーションの戦略に対して投げかけている疑念を注意深く分節化しなければならない。確かに、文化的尊厳に満ちたローカルな共同性への回帰やそれに基礎を置く地域的抵抗の組織化を唱えるローカライゼーションの主張には、グローバライゼーションによってわたしたちにもたらされる弊害への切実な反応が十分に認められてよい。しかし、そのような主張は結局のところ表出として一時的に説得的であるにすぎず、よりよき社会を持続的に維持するための表現としてはかならずしも適切ではあるまい。なぜなら、M・オルブロウ(2001)が述べるように、「コミュニティは絆を重視するが、絆とは包摂することと同じ程度に排除するものだからだ」(150頁)。しばしば指摘されるように、ローカライゼーションの言説に内在する場所被拘束的な自己言及的性格は往々にして保守的な反動的症候に転形し、文化的種別性を過剰に強調するアイデンティティの原理主義的主張へと還元され、そしてハーヴェイ(1999)が危惧するように、「最悪の場合、それは狭量的で、党派心の強い政治へとわれわれを連れ戻してしまい、諸断片間の熾烈な競争の中で、他者への尊敬が損なわれてしまうことになる」(452頁)。わたしたちはここで、こうしたことに関連して、「差異への権利」をイデオロギー的に称揚する多文化主義的実践の隘路に言及すべきであろう。確かに、多文化主義的実践は諸差異の共存を倫理的に寛容する進歩的実践として広く社会に受け入れられているように思われる。しかし、根底的に考えるならば、そのような倫理的寛容性は逆説的に、諸文化の先験的実体性を無条件的に境界づける意味の政治学を巧妙に隠蔽し、「自己観察」(N・ルーマン)の延命に貢献してはいまいか。
4 新しい場所概念に向けて
ではここで、未来に開かれた可能なる処方箋として、わたしたちはいかなる方向を選択すべきなのか。この困難な問いに答えるにあたっては、場所の再概念化をめぐるD・マッシー(2002)の議論がおそらく示唆的であろう。マッシーの議論を敷衍すれば、ローカライゼーションが再部族化に陥ることなくグローバライゼーションに対して調整的あるいは対抗的に作動するための条件は、共同体実在論から共同体唯名論への認識論的転回による再帰的共同性の構築に依存する。また、そのような再帰的共同性の確立を可能ならしめるローカルな場所はなんらかの一貫したアイデンティティがそのなかで正当に根拠づけられる意味論的空間としてではなく、一切の目的論的企図を欠いた関係論的空間として再定式化される。そして、そのような関係論的空間において形成される社会的紐帯は審美化された自明性としてではなく、その関係性の存続維持へとそのつど動機づけられる諸個人によって継起的に行われる意志的選択の産出物として理解される。
マッシーによって提起された上記のような戦略はあまりにもありそうにない道筋のように思われるかもしれない。実際、このような抽象的戦略によってグローバライゼーションとローカライゼーションの悩ましいせめぎ合いが直ちに止揚されることはきわめてありそうにないことである。しかし、カステル(1999)がいうように、「時によりユートピア的な展望こそ、近視眼的思考や抑鬱的停滞から制度を揺すり目覚まし、思考を絶した事柄を思考可能なものにし、そして不可避的な社会変容への現実認識を呼び覚ますと同時に人々が統制力を高めていくためにも必要とされるのである」(279頁)ならば、わたしたちはいま、新しい場所概念の構築に向けて知的に跳躍すべきであろう。
引用文献
M・オルブロウ(2001)『グローバル時代の社会学』日本経済評論社
B・アンダーソン(1997)『増補 想像の共同体』NTT出版
浅田彰(1999)『「歴史の終わり」を越えて』中公文庫
R・バルト(1967)『神話作用』現代思潮社
M・カステル(1999)『都市・情報・グローバル経済』青木書店
W・T・ゴードン(2002)『マクルーハン』ちくま学芸文庫
D・ハーヴェイ(1999)『ポストモダニティの条件』青木書店
D・マッシー(2002)「権力の幾何学と進歩的な場所感覚」『思想』933
J・M・ミッテルマン(2002)『グローバル化シンドローム』法政大学出版局