戦争問題と平和・・・宗教、教育、国際政治・・・
大庭 綾子
『戦争と人間の歴史』という本の中に、「戦争の起源のもっともそれらしい説明は、最終氷河期の終期、氷河が後退した後に、動物を飼い馴らし、農耕を始めた我々の祖先に対して、狩人であった別の祖先が仕掛けた攻撃に、それを求めるものである。」(J・キーガン、2000年、P14)という文がある。もし、この説が正しければ、人間は約1万年にわたり、形を変えながらも「戦争」という文化を繋いできたことになる。では、我々はこれから先もこの「戦争」をいつも地球のどこかで続けていくのだろうか。戦争がないことだけが「平和」というわけではないが、戦争が起こることは絶対的に「平和」ではない。戦争をなくすには、平和を考えるには、「何が必要」なのであろうか。かの有名なフロイトは1915年に書かれた『戦争と死に関する時評』の中で、「文明は、人間が持っている利己的な欲動を抑制し、文明が課す規範の従わせようとする。・・・中略・・・戦争は、国家が文明的な道徳規範を捨てることによって、市民たちをも文明の重圧から解放し、抑制されていた欲動に束の間の充足を許す。」(J・キーガン、2000年、P63)と述べているという。ここでいう「欲動」とは、「他者を攻撃すること」であるが、この文から、人間の「欲動」、つまり「戦争をする力」を防ぐには、「規範」が必要であるとわかる。では、現代において、我々の「規範」となるものは何であろうか。私はこれを「宗教」「教育」「法」であると考えた。たとえば、食事のときに神に祈りをささげ、教会を町の中心とするキリスト教徒や、一日に何度も祈りをささげるイスラム教徒を見ても分かるように、信仰者にとって、宗教とは「生き方」そのものである。また、「教育」は、その人間の知識の基礎を作るものであるし、無宗教者にとっては、なおさら「学校教育」というものが、その人の「考え方や価値観」を大きく左右する可能性がある。最後に、「法」は、どんな生き方、考え方をする人にも平等であり、社会に生きる我々は、その枠組みの中で生活している。よって、私は「宗教」「教育」「法」を人間の行動の基準となるもの、すなわち「規範」考え、この規範のあり方次第によって人間は戦争をなくし平和を築くことができるのではないかと考えた。では、そのために、これら規範はどう機能すればよいのだろうか。「宗教」「教育」「法」の順に、その現状と対策を考えてみたい。
世界人口を55億人とした時、宗教人口は世界人口の約80%にものぼるという。世界の大半の人々が、何らかの宗教に属しているのだ。では、その「宗教」が目指しているものは何であろうか。それは、どの宗教も間違いなく、「幸福」や「平和」であろう。では、「幸福」や「平和」とは何か。それは、その宗教や人々によって様々かもしれないが、冒頭でも述べたように、「争いがない状態」が「平和」の一部であることは、どの宗教においても例外ではあるまい。しかし、平和を願う宗教同士でありながら、対立し、争った事実はいくつもある。例えば、1966年から30年以上にわたって続いた北アイルランド紛争では、カトリックとプロテスタントが争い、3000人以上が犠牲になったというし、インドの北方、パキスタン、中国の国境にあるカシミール地方では、1947年のパキスタンからの独立以来、今でもヒンドゥー教とイスラム教の対立が続いているという。ギリシア系キリスト教徒とトルコ系イスラム教徒の対立であるキプロス問題も宗教対立のひとつである。では、なぜ、宗教は対立するのか。
それは、「それぞれの宗教によって、プロセスが違うから」という点にあるだろう。同じ「幸福」や「平和」を目指していても、宗教によって、それに至るまでの過程や、信じるものが全く違う。そしてその「過程」や「信じるもの」こそが、信仰者にとって「生き方そのもの」であるから、他宗教を「邪教」として認めず、対立が起こるのであろう。では、どれほど宗教間において違いがあるのか。
宗教は大きく分けて、神のいる「有神的宗教」と「無神的宗教」、そして、普遍宗教とも言われる「世界宗教」と、信者が特定の地域に限定されている「民族宗教」とに分けられる。「有神的宗教、無神的宗教」については名の通りだが、「世界宗教、民族宗教」については分かりにくいかもしれないので、少し説明しよう。「世界宗教」とは、キリスト教、イスラム教、仏教などで、これらは、国家、社会、性別、人種を超えて、世界中に広がっている。他方で、ユダヤ教、ヒンドゥ教、神道は特定の地域や民族に深く関わり、その民族の生活の中から生まれた宗教である。つまり、例えばアメリカ人が神道を信仰することは、理論上可能であっても、実際には難しいのだ。この分類だけでも、ずいぶん違うのだが、同じ分類であっても個々の宗教によってその信仰は全く違う。どれほど違うのか、代表として、世界三大宗教(キリスト教、イスラム教、仏教)の教えを見てみたい。同じ「有神的宗教」であるキリスト教とイスラム教は、ユダヤ教(民族宗教)と並んで、兄弟関係にあり、この三つの宗教は、神による天地創造、アダムとイヴ、ノアの箱舟、偉大な預言者モーゼ、イエスなどを信じている。しかし、ここで決定的に違うのは、キリスト教がイエスを「神の子」として信仰の対象にするのに対し、イスラムはイエスを「預言者」としかせず、実際の信仰対象を「アッラー」と呼ばれる唯一絶対神においている点である。このことにより、それぞれの信仰は兄弟宗教であっても大変異なる。まず、キリスト教の教えとは、イエスの説く「神の国」を目指すことである。「神の国」とは、神が王として支配している世界のことであり、神の愛の現れである。イエスの言うことを信じて、神の愛を受け入れ、自らの罪を悔い改めることができれば、誰でも神の国に入ることができるという。また、キリスト教には、カトリックとプロテスタントがある。聖書やイエスの位置付けは二者ともほぼ同じであるが、カトリックは、「特別な知識と訓練を受けた聖職者が教会で行う特別な儀礼」によって初めて個人は救済されるのに対し、プロテスタントは「人が救済されるのは個人の信仰によるものであって、教会での儀礼によるものではない」としている。次に、イスラム教は、万物創造神である、「アッラー」を信じることである。アッラーは人間を導くためにムハンマドという人物を預言者として使わし、戒律と規則を人間に与えた。その教えを集めたものが「クルアーン(コーラン)」である。クルアーンには、イスラムの信仰基盤と、守るべき儀礼を六信五行として表している。「六信」とは、アッラー、預言者たち、啓典、天使、裁判の日、天命という信じなければならないものであり、「五行」とは、信仰告白(アッラーのほかに神はない、という内容を唱えること)、礼拝(体をきれいにした後、メッカの方向に向かって毎日5回礼拝すること)、喜捨(毎年その人の年間所得や財産から一定の割合で金銭や現物を納めること)、断食(ラマダーン月は日の出から日の入りまで飲食してはならない)、巡礼(健康と経済が許す限り、一生に一度はメッカに巡礼しなくてはならない)から成る信仰者の義務である。この六信五行に基づいて信仰者は生活している。では、世界三大宗教の中で唯一「無神的宗教」である「仏教」の教えはどうであろう。仏教は、釈迦(ゴーマダ・シッダールダ)によって始められた。釈迦は紀元前566年にインド・ネパール国境沿いの小国の王子として誕生。何不自由ない生活を送るが、29歳のときに出家、35歳のときに「仏陀」となり、その教えを「仏教」とした。仏教とは簡単に言えば、「仏になることを目指す宗教」であり、その教えとして四諦・八正道がある。四諦とは「四つの真理」の意味で、第一に「苦諦」(私達の存在自体が苦である)、第二に「集諦(じったい)」(その苦の原因は「欲望」にある)、第三に「滅諦」(その原因を消滅すること)、第四に「道諦」(欲望のコントロールの仕方)である。八正道は、「正見」(仏教の正しい世界観、人生観)、「正思」(自分が何をすべきか考えること)、「正誤」(嘘、悪口、無駄口を言ってはならない)、「正業」(殺生、盗み、不倫などしてはならない)、「正命」(規則ただしい生活のこと)、「正精進」(正しい努力)、「正念」(自分や他人の立場に注意を払って生きること)、「正定」(精神を安定させ、物事をしっかりと見極めること)である。この四諦・八正道に従って、仏教はあるのだ。
このように、ざっと見ただけでも、宗教には個々によって、信仰にも、歴史にも、かなりの違いがある。もっと細かく見ればなおさらだ。しかし、先ほども述べたように、その信仰を通して、個人が「幸福」を求めていること、そしてその「幸福」が世界レベルで見れば「戦争のない世界」「平和」につながるのは当然である。つまり、これからは、それぞれの信仰が個々に存在するのではなく、「平和」という名のもとに共存していることを意識することが必要であるのだ。そして、その意識は、20世紀になって、少しずつ広がってきている。18、19世紀は植民地競争の中で、宗教も拡大をし、対立する時代であったが、1970年の「世界宗教者平和会議(WCRP)」の発足を機に、諸宗教は世界平和や環境問題に対して、共同で取り組むようになった。この会議では、各宗教者による対話や相互理解が図られている。また、このような平和組織は1つにとどまらず、「アジア宗教者平和会議」、「国際自由宗教連盟」、「日本宗教連盟」など、多数あり、どの組織でも宗教と社会のかかわり、世界への貢献活動が模索されている。また、2001年8月には、ニューヨークで世界平和サミットも開催され、各宗教者が次のことを承諾した。1)国連と協力し、平和の目標を追求する。2)生命、各人に内在する尊厳を大切にし、人々が暴力のない世界で生活できるようにする。3)宗教と人種差別による紛争を非暴力によって管理・解決し、宗教の名を借りた暴力活動を非難する。4)各国に宗教の自由を尊重し、和解、寛容を呼びかける。5)各宗教、人種、性別はすべて、教育、医療保健の権利を獲得し、持続的な保証のある生活を求める権利を有している。6)国内、国家間の財産の公平的な配分を促進させ、貧困を撲滅し、貧富の格差拡大の傾向を是正する。7)各コミュニティーに対し、地球生態システムと各種生物を保護して、環境保護を支持することをすぐに行動に移すように教育する。8)世界の造林運動を展開・促進し、この環境回復の具体的手段で、植林造林計画の輪を広げる。9)国連とともに各国の核兵器や大量破壊兵器の廃絶を呼びかけ、行動に移す。10)環境を破壊させ、人々の生活の質を低下させる技術応用、商業行為に反対する。11)コミュニティーに内在する仁愛、同情、服務、羞恥心などを含む、平和な社会を築くための基礎となる平和の価値を促進していく。
今までの対立からすれば、このような動きは非常にすばらしいものであるし、この宗教間の対話が、信仰者一人一人のレベルに達すれば、それは平和活動において、すばらしい力を発揮するに違いない。しかし、実際にはこの会議の実態が、どれだけ信仰者に伝わっているのかは疑問であるし、宗教間が本当に協力するためには、各宗教団体に政治でいう「外務省」のような、「他宗教とのつながり」を専門とする組織を作り、「安全保障条約」のような条約を作り、信仰者に伝えていくなど、もっと細かい対処が必要であるかもしれない。しかし、そうなれば、「宗教」と「政治」をどうわけるのか、信仰者による反対運動が起こるのではないか、など、様々な問題が出てくるであろう。だが、異なる宗教が互いに認め合おうとするなど、歴史的に見れば、やはり大革命である。世界人口の80%が宗教人口者である。単純な考えかもしれないが、全ての宗教団体が「紛争」を放棄し、平和活動のために協力することを誓えば、世界人口の80%が紛争を放棄したのと同じことになる。まだまだ組織に加盟してない宗教も多い。まずは、全ての宗教団体が「世界宗教者平和会議」など、何らかの平和組織に加盟することを期待したい。
では、次に「教育」について考えてみたい。宗教人口30%という日本のような宗教観の薄い国にとって、教育は最初に「考え方」を教わるものであるし、宗教をもつ人々においても、教育は宗教活動とまた違った価値観や事実を教えてくれるものであろう。また、宗教が各宗教において、信仰が違うのに対し、「教育」はどんな人々においても事実はひとつでなければならない。このような、「教育」は平和に関してどう機能しなければならないのか。ここでは、「日本の平和教育」について考えてみたい。
実際に、私が小学校・中学校で学んできた平和教育を振り返ってみると、それはすべて「第二次世界大戦における日本」つまり、日本国民がさらされた空襲や広島・長崎に投下された原爆、特攻隊、沖縄の悲惨さ、そして日本が中国・韓国・朝鮮の人々にしてきた残虐行為であった。もちろん、この歴史を学ぶことはとっても大切であり、私たちが永遠に忘れてはならないことであると思うが、21世紀の平和を築くで、果たしてそれだけで十分なのであろうか。『平和教育のパラダイム転換』という本は、現在の平和教育を批判している本であるが、その内容は次のようなものである。「平和教育の始まりは、『戦争に行きたくない子供』を作り出すことであった。そのような平和教育は、戦争の悲惨さ、残酷さに対する嫌悪感を育て、戦争をくいとめようとする教育である。しかし、これでは、『戦争の恐ろしさはよくわかった、だが今は平和だ』という意識を持つばかりである。平和教育は、やがて教育の原理として『日常の教育』全体につらぬかれるものでなくてはならない。現在の平和教育は『平和か無か』『善か悪か』の絶対論である。現在の平和教育は、『今の平和を充実して生きること』を教えてはいない。平和を『合言葉』ではなく、『現在あるもの』として受け止め、戦争のない今を『いかに生きるか』ということこそ大切なの平和教育ではなかろうか。」
この他にも、この本には、様々な視点から現在の「平和教育」を捕らえている。ここで、この本の視点を参考に、私が思う「理想の平和教育」をいくつか挙げたい。ひとつは、今日のように「戦争を過去の惨事」とばかり伝えるのではなく、「現在も起こる紛争」やその「原因」についても教える平和教育だ。現在でも、パレスチナ問題をはじめ、世界では紛争や対立が起こっている地域がある。そして、戦争や紛争の原因には、「経済問題」や、「資源問題」、「民族問題」など、色々な要因がある。例えば、私は、「戦争を防ぐ手段」として、「教育」を取り上げているのだが、世界には、非識字者が15歳以上の世界人口の27%にあたる9億6260万人、6歳から11歳で教育を受けることができない人々が1億人以上いるという。(1990年、ユネスコ調べ)生活に最低限必要な読み書き、計算を学ぶことすらできない彼らが、どうやって平和教育のような学習をし、戦争や平和の事実を知り考えるのだろうか。また、「ではなぜ、非識字者や、教育を受けられない子供がいるのか」ということを考えれば、それは「貧困」という原因に突き当たり、「なぜ貧困なのか」ということを考えれば、「資源や技術がないから」という原因に突き当たる。そして、人々はそれを得るために争いだすのである。また、悲しいことに、北朝鮮のように、軍事費に多大な資金をつぎ込み、人民を「貧困」に陥らせている国もある。次に、「戦争がないことだけが平和ではない」と教える平和教育である。戦争がなくても、「平和」とは呼べない所はたくさんある。「いじめ」や「自殺」「リストラ」、「環境汚染」が増加する日本もそのひとつであるかもしれない。戦争中に日本によって家族が引き裂かれ、いまだに会えないとい北朝鮮や韓国人の人々のもいる。また、「人権」にかかわる不幸を背負っている人や地域もたくさんある。先ほど述べた「非識字者」もそうでるし、長い間、先進諸国の「植民地」であり、独立後も経済発展が遅れ、今なお貧困・飢餓・環境悪化などに苦しんでいる「発展途上国」がある。この問題をもっと身近に感じさせるのも、平和教育の大事な役目ではなかろうか。そして最後は、このような事実を踏まえた上で、「では、私たちに何ができるのか」「今、現実に日本や先進諸国は平和のために何をしているのか」そして「紛争地域にいる人々は、どうすべきか」ということを考えさせる平和教育である。例えば、日本や先進諸国が行っている活動の一つとして、「ODA(政府開発援助)」という制度がある。この制度は、海外経済協力の一環として、先進国政府が発展途上国に行う援助のことであり、大変贈与的性格が強い。また、日本の援助額は約1兆円であり、世界でも1、2位である。しかし、日本のODAは、現地の生活に直接役立っていない(1979年に、スリランカは9割もの世帯が電気を使えないのにもかかわらず、日本はカラー放送を無償援助したこともある)とか、ODAはダムや道路、港湾の開発を引き起こすなど、発展途上国住民の生活や環境を破壊しているという批判があるのも事実だ。この他にも、技術援助など、日本や先進諸国は発展途上国に対し様々な援助を行っている。これらの援助や、また問題点などを子供たちに調べさせ、考えさせる平和教育こそが、21世紀の平和を考える上で必要不可欠になるであろう。
ここまで、「宗教」と「教育」について述べてきたが、この二つは、人や社会において非常に大切な規範でありながら、やはり曖昧なものでしかない。では、確実に揺るがない「規範」は何であろうか。それは「法」である。我々は、法律に従って生き、それを破るものはどんな人であろうと罰せられる。では、「法」の中で、「戦争」とはどう位置付けられているのであろうか。
第二次世界大戦後の1947年に施行された日本国憲法第2章第9条は「戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認」を記載している部分であり、そこには、「@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と記載されている。つまり、日本は「法」の中で、戦争を放棄しているのだ。また、法だけではなく、政治面でも、日本政府は核兵器を「つくらず、もたず、もちこませず」の非核三原則をとっているほか、「原水爆禁止世界大会」などさまざまな平和会議への参加、国連への参加、などを行っている。では、「世界レベル」で見た「法」の中で「戦争」はどう位置付けられているのであろうか。「国際法」と「戦争と平和の問題」について見てみたい。
「国際法」とは、原則として、国家間の合意によって形成され、国家間の関係を規律とする法であり、現在のような「国際法」は1648年のウェストファリア条約により成立したとされている。このような「国際法」にとって、戦争と平和に関する問題は、国際法成立当初から、そのあり方を規定する重大問題であった。初期の国際法学者であり、国際法の父とも呼ばれる、「グロティウス」は、代表的な彼の著作、『戦争と平和の法』(1625年)の中で、「私はキリスト教世界を通じて、野蛮人でさえもが恥ずかしくなるような戦争を抑える手段が欠けているのを見る。私はまた、人々がわずかな理由のために、あるいは何の原因もないのに戦争をはじめることや、またひとたび武力に訴えた際には、ちょうど気違いがあらゆる罪を犯すことを、なにかある法令があって認めているように、神意法であろうと人意法であろうと、これに対するいっさいの尊敬がなくなってしまうことを認めるものである。」(『新編現代社会資料集』、1999年、P249)と述べ、当初、戦争を「正しい戦争」と「不正な戦争」とに分け、正当な原因に基づく正しい戦争のみが国際法により許容されるという「正戦論」を主張していた。しかし、この理論には重大な問題点があった。国際法は国内法と違い、立法機関が存在せず、法の適用を受ける国家が自ら法を作成する仕組みにある。このため、その戦争が「正しい戦争」であるかどうかは、各交戦国が自らの戦争を「正しい戦争」と主張する限り、すべて正しい戦争とせざるを得なかったのである。そこで、18世紀半ば以降、「正しい戦争」と「不正な戦争」を区別することなく、すべての交戦国は平等に取り扱われるという「無差別戦争観」が定着した。しかし、これはあくまでも「戦争開始の手続きに関するルール」や、「戦争の遂行方法に関するルール」のみを定めるもので、「戦争行為」自体を規制するものではなく、その結果、第一次世界大戦(1914〜1918年)やロシア革命(1917年)が勃発することとなる。そして、その後創設された「国際連盟」においては、第一次世界大戦の反省を踏まえ、「集団安全保障体制」が導入されることとなった。これにより、加盟国は、戦争につながる危険のある国際紛争が発生した場合、@直ちに戦争という手段に訴えるのではなく、仲裁裁判、常設国際司法裁判所による司法的解決、または連盟理事会による審査等の手段により平和的な解決を目指すこと。A裁判の判決や理事会の報告から3ヶ月以内は戦争を開始しないこと。B判決や報告の勧告に従う国に対しては戦争を行わないこと(『法学レッスン』、2002年、P216〜217)などが義務付けられた。しかし、結局これも「第二次世界大戦」(1939年〜1945年)を食い止めることはできなかった。その理由は、戦争自体は最終的に禁止されていなかっただけでなく、先着行為の存否の認定を書く加盟国の個別の判断に委ねていたため、その判断にばらつきが生じて、連盟として統一した行動をとることができなかったことや、違反国に対する制裁が経済封鎖など非軍事的な措置を中心としていたこと等、集団安全保障体制に不備があったため(法学レッスン、2002年、P217)である。このことを踏まえ、第二次世界大戦後、国際連盟にかわり創設された国際連合の国際連合憲章第2条第4項では、「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」(国際連合広報局、2002年、P361)と述べ、戦争を含むすべての武力行為だけでなく、武力による威嚇行為までもが禁止された。このようにして、武力行使の禁止は国際法上の基本原則となり、あらゆる戦略戦争が禁止されることとなった。また、「国際裁判」(加盟国が任命した裁判官の中から、紛争の発生するごとに紛争当事国によって選ばれた裁判官で紛争を処理する「常設仲裁裁判所」と、国連の常設機関で、紛争の当事国の同意により、国際法に基づいて裁判を行う「国際司法裁判所」から成る)
や第三国が和解の斡旋を行う「国際調停」などにより、国際調整が行われている。また、「安全保証理事会(安保理)」も国際平和において、大変重要な機関である。安保理は現在加盟国189カ国という国連の機関の中で、国際社会の平和と安全の維持に責任を負っているわけであるが、この機関は、常任理事国(アメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシア)と加盟国の中から選出される非常任理事国10カ国からなる。この機関は、紛争が発生した場合、当事国に対して平和的な解決を要請し、必要があれば調査・調整を行い、紛争解決のため行動する義務を負っているほか、武力行為禁止に違反するような事態が発生した場合には、違反国に対して非軍事的措置(経済制裁、外交の断絶)や軍事的措置(非軍事的措置が不十分である場合のみ。加盟国との自発的提供による国連軍により行われるが、現在にいたるまでこの特別協定を結んだ加盟国はなく、正規の国連軍はない)を実施することを決定する。このような安保理体制であるが、この国際連合には国際連盟とは異なり主要国が顔をそろえており、組織としての普遍性が強く、また、安保理の発動にかかわる決定は常任理事国すべての同意がないとならないため、その実効性は非常に高い。
以上のように、これまでの二回にわたる世界大戦や、各地で頻繁におこる紛争を踏まえ、現在は「宗教」も「教育」も「法」も『同じ平和』を目指している。しかし、それにも関わらず、「同時多発テロ」や「北朝鮮問題」は解決しない。これらの問題に対して、我々はどう対処すればよいのだろうか。現在、世界中で核兵器の廃絶が歌われているが、もし、核兵器保有国がそれを使用してしまえば、私たちが守り築こうとした「平和」はあっという間に崩れてしまうだろう。今回、「戦争」と「平和」をテーマに「宗教」「教育」「法」を考察したが、最終的に「平和」とは、他人や他国を「信頼」できる状態にあるのだと思う。「北朝鮮問題」や、「アメリカ・イラク問題」など、今はまだ他国を信頼できる状態ではない。また、現在の国際政治は、平和問題も含めたあらゆる面で、先進国ばかりが主導権を握り、「グローバル化」と歌いながら実際は「アメリカ中心化」しているのではないかという部分も気になる。他の国々の意見にも、もっと耳を傾けるべきではなかろうか。では、これから日本や国連は世界平和にむけてどう動くのか。南北問題や貧困に苦しむ国に対して、経済はどうあるべきか。私は、これからも色々な視点から「戦争」や「平和」について学び考えてみたい。
《参考文献》
・国際連合広報局 『国際連合の基礎知識』 世界の動き社 2002年
・J.キーガン 『戦争と人間の歴史』 刀水書房 2000年
・石井 研士 『手にとるように宗教がわかる本』 かんき出版 2002年
・高橋 史朗 『平和教育のパラダイム転換』 明治図書 1997年
・鴨野幸雄、中島史雄 『法学レッスン』 成文堂 2002年
大山儀雄、佐藤明夫
・『新編現代社会資料集』 第一学習社 1999年