巨大都市カルカッタとカースト制度の機能・必要性
宮本 順子
目次
T はじめに
U インドの概要
V カースト制度の概要
W 都市カルカッタの誕生
X 現代のカルカッタ
Y 今後の社会秩序の変化
Z まとめ
[ 参考文献
T はじめに
人間は社会的な存在として社会を形成することによって、はじめて人間らしい生活を送ることができる。しかし、すべての社会の人間は何らかの形で分類化されているので、社会的排除の存在も当然あるはずである。
世界で最も人口の多い国の一つであり、ソフトウェア開発においては米国に次ぐ生産を誇るIT大国でありながら、一方、その日一日の生活もままならない人々が溢れる。まったく多様性と矛盾に満ちた現代インド社会は、近年、人口10億2千万人を越えた。それと同時に、その人口の中で未だ古代からのカースト制度による貧富の差・社会的排除が続いているということも忘れてはならない現実である。そのような極端な現実を抱えるにもかかわらず、日々巨大化しているインドの都市の一つに、インド北東部に位置する大都市カルカッタがあげられる。このレポートでは、前期に調べたカースト制度の社会的意味という課題を活かしながら、混沌の国インドの大都市カルカッタにおける、カースト制度の機能・必要性を述べたいと思う。
U インドの概要(気候・生活・教育・宗教)
インドは一人当たりの国民所得246ドル(日本の約37分の1)という、非常に貧しい国家である。また季節風(モンスーン)の影響により旱魃、洪水、猛暑、豪雨などの天災に晒されるために、インドの生活水準は世界最低と言われる。カルカッタに立った19世紀のイギリスはこの街を「この宇宙で最悪な場所」と呼んだ。
農作物の不作に繋がる天災は、インド国民の困窮をますます促し、彼らの所得を減らす。その低所得は教育にも影響を与える。近年、上昇傾向にあるとはいえ、インドの子供たちの就学率はその人口に見合ったものではなく、全体的に低い。学費の工面が困難なため、または保護者が子供の将来を見込んだ投資的な教育よりも、即時的な労働力を必要とすることなどがその原因であるが、それは識字率の低下や優秀な人材の育成の困難に繋がる。いわば悪循環が起こっている。
またインドはその広い国土上、まったく異なる気候風土が存在するため、国家レベルでの画一的な対策は難しい。そしてインドは多言語社会である。各地方の方言を加味すると、その種は200にも及ぶ。つまり、同じ国であるにもかかわらず、言語コミュニケーションが取れないという事態がこの国では当為なのである。その対策のため、教育段階で公用語(ヒンディー語)の授業が熱心であり、世界共通語である英語もしかり、インドは言語教育においても重点を置いている。
そしてインドを語る上で欠かせないものにヒンドゥー教の背景があげられる。特に「牛」は宗教的に神聖化され、崇拝されている。交通渋滞を引き起こそうと、国民の動物性タンパク質が不足しようと、牛への崇拝は変わらない。しかしこの生物への畏敬の念が、時として工業化、合理化の促進の妨げになることがある。
V カースト制度の概要
ガンディーが人々に訴えた言葉に
「我々とまったく同じ兄弟のハリジャンを、我々がいつまでも人間扱いしないなら、インド人が白人から人間扱いをされなくても、それに抗議することはできない。我々は、白人の支配と侮辱を怒ると共に、我々自身の問題であるハリジャンを解放することを、我々の手で行わなければならない。」というのがある。
1947年、インドはイギリス支配を脱して独立した。翌年1月。インド憲法発布の直前、ガンディー暗殺事件が起こった。しかし、彼の遺志は憲法の中に盛り込まれていた。
第15条に『国家は公民に対し、宗教、人種、カースト、性、出生地、またはそのいずれかによって、差別を行わない』さらに、『商店、飲食店、旅館、公衆娯楽場への立ち入りや、井戸、水槽、沐浴階段、通路なども平等に使用することを妨げない』と、明記されている。この条文を読むと、ひどい差別が実際に公然と行われていたことがよくわかる。
そして、第17条には『不可触賤民は廃止され、すべての形式の行使も禁止される。“不可触賤民”であることを理由にしたあらゆる無資格を強制することは、法律によって処罰される対象となる』と明文化されてもいる。
やっと、憲法に“平等”がうたわれることになったのだが、3000年以上にもわたる『カースト』の思想は、そう簡単に消え失せるわけが無い。そんな憲法や法律が生まれ、差別することを禁止されたことさえ知らない人達が沢山いた。依然として“ハリジャン”は人間扱いをされず、井戸の共同使用や、飲食店への立ち入りなどはとんでもないことであった。トラブルの続出によって、1955年に『不可触制処罰法』が追加され、もし差別したことが判明すれば、6ヶ月以内の懲役、500ルピー以内の罰金が課せられるようになった。(この法律の名称は1976年に「市民権保護法」と改正されている)
法律を作り、“不可触賤民”を“ハリジャン”と呼び“市民”といい直してみても、結局は差別を根本から取り除くことはできなかった。
しかし一方では、かつては考えられなかったことが新憲法によって生まれてもいる。インディラ・ガンディー内閣の時の食糧農業相はハリジャンの出身である。彼だけではなく、国会議員が70人近くもいる。これは選挙法で、ハリジャン以外の立候補を認めない一定数の選挙区が確保されているからである。
国会議員が沢山いるほかに、かなりの金持ちもいるらしい。「“被差別”を武器に手に入れた利権で、“ハリジャンのブルジョアジー”が生まれつつある」という声もある。
噂通り一部に豊かなハリジャンがいるとしても、それは限られたごく少数で、残る大半の人達は、差別と貧困の淵から這い上がれない暮らしをしている。
インド独立のとき、土地改革が行われたはずだが、その土地も貧しい農民の手には渡らなかったらしい。封建地主のあとに、役人、商人と結びついた銀行家や、実業家たちが、すっかり農地を支配し、新しい地主階級になっているかららしい。
だから、いかにカースト制度が廃止されたといっても、自分の農地をもっていない農民は、労働力を提供するという仕事に釘付けされ、昔のままの地位で同じ仕事をしていることになる。
『カースト制度の廃止』が、過去・現在と虐げられ、差別されてきた人々の側にたった“本質的な意味での改革”に、まだ至っていないからだろう。
獄中にあったネルーが、娘のインディラ・ガンディーに手紙を書いて、「カースト制度の始まりは、アーリア人の征服者としての傲慢な支配欲が作り出した差別である。それは『色』を意味する言葉であったことを考えてみるがよい。」と、その起源から説き起こし、人間の平等、階級差別と闘わなければならないことを教えたという。(ちなみに、インド共和国独立後の初代大統領になった彼は、カーストでは最高位のバラモンであった)
後にインディラ・ガンディーが結婚の相手として選んだ男性は、拝火教徒で、異教徒であった。このとき「人間は差別無く平等で、宗教宗派も平等でなければならない」と主張し続けてきた父ネルーは猛反対をした。
結局マハトマ・ガンディーが間に入ってとりなし、この異色の結婚は実現したが、あの“偉大な指導者”ネルーにして、他に向かっていえたことも、自己の問題となると、この始末である。これは“全インドの人々からカーストを始め、もろもろの差別意識がなくなるには、ものすごく長い時間が必要である”という、暗示的なエピソードだといえる。様々な差別をなくすためには、まず自分の中にある意識を変革していくことからしか始まらない。
〔カースト制の起源・用語〕
カーストの起源は、紀元前1000年頃まで遡り、その頃侵攻してきたアーリア人(支配階級)と元々住んでいたドラビダ人(被支配階級)を区別するために発生した。そして紀元前200年〜紀元200年頃、同時期に作られた※マヌ法典によって完成した。
(※マヌ法典・・・バラモンの特権的身分を強調 /ヒンドゥー教徒の生活を規定)
インドにおけるカーストの位置づけの根拠は「浄・不浄」とされる。よって、カーストの低いものは劣っているから差別されるのではなく、不浄だから差別される、ということになる。一般に私達が知っているカーストの4階級は、本当のところは奥が深い。インドでは「カースト」4階級の下に、アウト・カーストというもう一つの階級があるが、日本では知らない人が多い。そして更にそれらの階級が「サブ・カースト」という職業レベルのものに分かれる。
>カースト
@バラモン(僧侶・司祭者)
Aクシャトリア(王族・士族)
Bヴァイシャ(平民・商工農)
Cシュードラ(奴隷)
Dダリット(不可触民)
>サブ・カースト
・上記のカーストをより細分化した職業集団アイデンティティーで、現在種類は3500
種以上あるといわれる。
〔不可触民の存在〕
私たちが知っているカースト4階級の下に、アウト・カーストのダリット(不可触民)と呼ばれる人々がいる。その人々は出生を理由に様々な差別、人権侵害、殺人を含む残虐行為を被っている。彼らの住居は隔離され、より上位のカーストが住む場所に立ち入ることはできない。上位カーストと同じ井戸・寺院の使用は禁止され、沐浴上、学校、公共施設や、法的に有するはずの土地の権利を主張することもできない。職業についても同様で、道路掃除、糞尿・動物の死体処理、洗濯、家畜の屠殺、皮革業などに制限され、子供が債務奴隷にされたり、ダリット女性が性的虐待の犠牲となることも頻繁にある。政治的にも経済的にも無権利な状態にある。この事実は国際社会(人種差別撤廃条約の履行監視機関である人種差別撤廃委員会)から非難を浴びている。
〔カーストの機能〕
ヒンドゥー教の因果応報的な思想の中でのカーストの機能としては大きく分けて、
@タテ社会的機能・・・異なるカーストに対する差別機能
ヨコ社会的機能・・・被抑圧カースト内の相互扶助機能
があり、これらの意義は、階層化された社会を垂直的に統合することや、社会の特定階層を自立的な集団として共通の目標に向かわせることにある。
A帰属的アイデンティティー・・・「優越感」「劣等感」の源泉
有益なアイデンティティー・・・逆差別措置の受益資格
1990年代、憲法により制定され、特別保護・優遇(ex:連邦・州議会の一定比率が議席として割り当てられる)が約束された。
〔都市部と農村部での比較〕
世界の近代化が進むにつれ、インド都市部のカースト意識も希薄になってきている。都市部では、生まれつきの身分や浄・不浄を前提として考えるのではなく、むしろ学歴・収入が社会的地位を規定するようになっている。農村部においても、思考の近代化が進んでいるようで、以前までは許されなかった、上位カーストの者が下位カーストの者と共に食事をすることも可能になりつつある。
〔カーストはなぜ持続するのか〕
古代から近代に至るまでカーストに対する批判・改革・否定運動が見られた。しかし、それらによってカースト制度とその原理が大きく崩れたり消滅したことはなかった。運動から生まれた社会集団は、いずれも新たなカーストとなり、アウト・カーストを含めたカースト秩序の中のどこかに座を占めさせられた。カースト規範に属さない外国人も、インドのキリスト教徒、仏教徒、イスラム教徒、それにヒンドゥー教徒からそれらの宗教への改宗者も、基本的にはすべてカースト的階梯のどこかに位置づけられてしまうのである。それは当事者が意図的に選び取ったランキングではなく、ヒンドゥー社会の中で自ずと生み出される位置である。
W 都市カルカッタの誕生
カルカッタはわずか数百年の間に、ジャングルと湿地に囲まれた熱帯の寒村から突然に見出され、急速に形成された都市である。この都市の急速な発展は、イギリス東インド会社の役人であったジョブ・チャーノックが今から約310年前の1690年にガンジス川の一支流であるフーグリ河畔のシュタヌティ村に商館を開設したことに始まっている。しかし、イギリス人の入植当時の住環境は悲惨を極めていた。例えば、1708年8月から翌年1月の間に、1200人いたイギリス人が750人に半減してしまう。過酷な住環境の中で、暑い夏と逃れようの無い雨季の湿気の中で、熱帯の悪疫によって、約450人のイギリス人が死亡したのである。それにも関わらず、カルカッタの人口は増加し続けた。
〔都市カルカッタの拡大〕
18世紀に入ると、カルカッタを拠点とした東インド会社の交易は拡大を続け、その富に群がる人々を、インドからも、イギリスからも集めたのである。また、多くのベンガル人が西方の紛争から難を逃れてカルカッタに流入し、カルカッタへの人口集中を一層促すことになった。18世紀中頃には、その人口は約10万人。18世紀初頭の約1万人の人口から、この間にすでに約10倍に膨れ上がっていたのである。
ベンガルはガンジス川の下流域にあたり、世界最大のデルタ地帯を形成している。このカルカッタを懐に抱くベンガルの広大なデルタ地帯は、熱帯の豊かな自然環境に恵まれていて、インドでも有数な生産力を誇る穀倉地帯として、古くから人々に知られていた。
イギリス東インド会社がベンガルの地への進出に積極的であったことの背景には、それまでの香辛料貿易から繊維工業製品への、取引の比重を移したことがあげられる。当時のベンガル地方は、インドの中で並ぶものの無い、良質で高級な綿布の産地として知られていた。その綿布製品などのベンガル産品による利益を見込んで、東インド会社は活発なベンガル進出を展開した。
〔イギリス人の地理的考慮〕
会社当局の反対にも関わらず、チャーノックがこの地を永続的な交易の拠点に選んだのは、フーグリ川を遡行してくる外洋船舶にとって、川が蛇行するこの地点は、フーグリ川の水深が確保される遡行限界であったこと。そして、周囲の沼沢地や自然堤防が、軍事的観点から、防衛上都合のいい地形であったためである。初期のイギリス人にとっては、このような僻遠の劣悪な環境が、むしろ逆にインドに拠点を築くためには必要だったといえる。このチャーノックの軍事計略によって、カルカッタのその後の運命が決定されたともいえるだろう。
このようにして築かれたシュタヌティ村の商館は、イギリス東インド会社によるベンガル支配、さらにはインド支配の要として成長していくことになる。しかしその発端は、ベンガルにおけるイギリス東インド会社の小さな商館に過ぎなかった。
X 現代のカルカッタ
1857年のインド解放戦争(セポイの反乱)が鎮圧されると、約250年続いた東インド会社は解散され、インドはロンドンのインド政庁を通して、直接イギリスの帝国主義的支配の下に置かれることになった。そのイギリス人による帝国支配の端緒を、全土を結ぶ鉄道網の建設に見ることができる。1853年にインド全土への鉄道建設が着手され、1870年代には今日のインド全土の鉄道網の幹線部はほぼ完成してしまう。日本で新橋・横浜間にはじめて鉄道が開通するのは、1872年のことである。このような異例な早さの鉄道建設は、イギリスが膨大な予算をつぎ込み、多大な意図と熱意で進めたことによる。
インド全土を覆う鉄道網は、英領インドの統治と富の輸送の大動脈として不可欠のものであった。そして、この鉄道網の建設は、同時にカルカッタの商業的繁栄を一層促すことになった。カルカッタは、今やインド亜大陸の隅々から物資を調達して国際市場に送り出し、また海外からの輸出品を国内市場へと流通させる、一大集散地として、飛躍的な発展を遂げることになる。また1973年には、カルカッタと対岸の地とを結ぶためにフーグリ川に橋が架けられ、カルカッタの流通機能は一層活性化した。
〔大都市への人口流入〕
このようなカルカッタの商業的発展は、物資の集散ばかりではなく、人口の流入をも一層促進するものとなった。農村への商品経済の浸透は、従来の農民層の解体を促し、増大した貧困層がカルカッタへの流入人口を形成するという構造的要因も見られた。
19世紀後半から20世紀にかけての、カルカッタの北・東部や港湾施設周辺の、南部への市街区の拡大は、スラムの拡大としてであり、その住民の多くが、地方から都市への出稼ぎに来た男子の単純労働者で占められていた。彼らの多くが、発展しつつあったジュート工業や綿布工業の工場労働者、港湾や鉄道の運搬夫、人力車夫、あるいは様々な雑役夫として雇われていった。彼ら出稼ぎ型男子労働者は、故郷の家族に送金をし、時々家族に会えることを楽しみにしながら、カルカッタの経済を、まさに身をもって支えてきた。
今も市の郊外へと拡大を続けるスラムは、過密な都市の悪弊と、多分に村落的な粗放さとを併せ持つ環境にあり、第三世界の都市の形成には避けられない様々な問題を投げかけている。カルカッタのスラム人口は、1981年の統計ではカルカッタ都市圏の人口約1020万人のうち、およそ3分の1の323万人を占めるにいたっている。
また、同じ職種のカーストの人々でまとまり、流入する集団もあった。このような職能カーストの集団は、伝統的な職種を都市でも維持することによって、生き残りをはかろうとした。例えば、真鍮細工を専門とするカーストの人々は、カルカッタでも真鍮細工の職人集団を形成した。彼らは今日では、その加工の技術を活かし、様々な金属加工業をも手がけるようになっている。
〔都市で生き残るための手段〕
このようなカースト職種の維持は、カースト制度の因習に基づくというよりも、都市での生き残りのための重要な手段となっていた。いわゆる不可触民に含まれる清掃カーストの人々も、自らのカーストを否定するのではなく、逆にカルカッタ市の清掃作業を引き受けることによって、少なくとも今日では安定した収入を確保することができる。
このような都市のカーストとして、その他花輪作り、床屋、洗濯屋、皮革産業、さらには吟遊詩人などの芸人も挙げることができる。生き残るすべも無く、しかし、度重なる飢餓や疫病、洪水やさらには様々な紛争によって、やむなく村を捨て、都市に移住する人々もいた。生活のあてがなくとも、きらびやかなカルカッタに魅せられるように、人々は都市に向かっていった。カルカッタは、生きていこうとする者を受け入れることができる都市でもあった。
Y 今後の社会秩序の変化
〔人口集中の緩和〜農村部の都市化〕
このような都市の人口集中は、住居の絶対的な不足を招き、インドの主要都市の約半数は不法占拠居住であるという。いわゆるスラム居住が広範に見られるわけで、そこでは劣悪な居住環境が健康を損なうだけでなく、人間性の退化をも招く。都市部の人口集中を分散・緩和するための手段として地方部の繁栄が求められ、そのためにはまず農業や人口問題を対象とした多くの重要な開発計画や改革が実施されなければならない。しかし実際のところ、計画はスムーズに進んでいないようである。おそらく、開発速度が人口増加に追いつかないという理由が、これらの事態を招いているのだろう。
〔カースト制度の除去は可能か〕
「カーストはヒンドゥーの最高傑作」という言葉がある。インドの巨大都市カルカッタにおいて、街は多様性に満ち、混沌としながらも、共同体としての営みを続けているように見える。カースト制度は、深い混沌の中に秩序を築くための一種の統合手段として編み出された、インド人の知恵ともいえるかもしれない。そして下位カースト、アウト・カーストに生まれ、終世変わらぬ地位、限られた可能性の中で過ごす人々(実際、バラモン階層でも8割は貧しい暮らしを送っている。)は、輪廻転生の思想を持って、自分の来世のために最善を尽くす。しかし、人間には欲望というものがあるし、人間的に豊かに、幸せになりたいというのが当然ではないのか。一方で、カースト制度への攻撃は、インドに対する、新しい形の欧米型論理の押し付けのようにも思える。という意見もあるが、自分としては、カースト制度は、そのような人間本来の性質を無視しているように思えてならない。
カースト制度は除去可能かという問題について、方法としては
@すべての農民に対する教育の全面的普及。
(例えば、Vで述べたように「差別禁止が憲法で決められたことを知らない」ということはあってはならない。)
A農民の世襲的職業からの離脱。
B農村部・都市部における新しい雇用機会の創設=農村の都市化・工業化
→都市部の人口分散に繋がる
の三つが挙げられる。しかし、Vカースト制度の概要の、〔カーストの機能〕でも記述したように、有益なアイデンティティー機能として、被差別カーストに対する優遇措置というものがあることによって、実際にカースト制度による不合理な差別を思い知ってはいても、その根本的な改革のための道を一直線には開けないという現状もある。また、カーストはヒンドゥー教と密接に結びついているために、ヒンドゥー教徒の意識の奥底に封印されていることもあり、さらに改革を難しくしている。
Z まとめ
日本には神道・仏教・キリスト教を始め、いくらか宗教信仰は存在するが、インドほど強くはない。基本的に無宗教を称することが多く、個人の宗教を意識するのは葬式の時くらいだろう。日本は神道が外来文化をおおらかに受容するために、近代化の阻害要因にならなかったようだ。それに比べて現代のインド社会には都市部・農村部ともに、ヒンドゥー社会が浸透・蔓延している。
ヒンドゥー教に基づくカースト制度が存在する限り、グローバル化の中でインドが他国とより直接的・親密に協力していくのは難しいのではないかと思う。例えば日本とインドの場合、『人事に関しては現地パートナーに任せている企業がほとんどである。その理由としては、階級制度つまりカースト制のなごりや、宗教の違いなどに対する経験不足が上げられる。日本人スタッフがこうした社会的事情を考慮に入れながら、全従業員の労働管理を適性かつ円滑に進めていくのは至難の技のようである。』と書かれている資料もあった。
私が今住んでいる東京は、カルカッタと比べると、衣食住の面でも自由で豊かだし、人間的にも差別されるようなことは無い。私たちにとってはそれが普通なのだが、そこに息づく人々が織り成す「都市のエネルギー」としては東京はカルカッタに負けるだろう。
しかし今回こうして大都市カルカッタとカースト制度の機能を調べたことによって、自分の住む都市東京のあり方を今までとはまた別の視野で見ることができるようになったし、実際にカルカッタのような都市が存在するということを知ったからには、単に「文化の違い」で終わらせずに、これから都市を請け負っていく世代としては参考にしたいし、人口集中問題・カースト制度については、これからも現代人の課題となるだろう。
[ 参考文献
・賀来弓月『インド現代史』中公新書 1998年
・小川忠『インド 多様性大国の最新事情』角川選書
・小谷汪之『インドの不可触民』明石書店
・ドミニク・ラピエール『歓喜の街カルカッタ』河出文庫 1992年
・妹尾河童『河童が覗いたインド』新潮文庫 1991年
・『インド・オブザーバー』URL>http://users.hoops.ne.jp/ishiishimr/poverty.html
・『カルカッタ−アジア民族写真叢書』路上から―カルカッタ 巨大都市の相貌―
平河出版社 URL>http://www5a.biglobe.ne.jp/~folk/Calcutta.html