都市空間のポルノグラフィ
松尾
和美
1.
公共空間における日常のポルノグラフィ
生活の場である都市空間には、女性を「モノ」として形容し象徴しているポルノグラフィが存在している。日常的にみられる光景の一部として、あたかもそこにあるのが当然のように、女性差別を固定観念化させ、それに対する敏感性を麻痺させながら存在している。
都市の生活の中で、それらの一端を見ない日はない。電車の中吊りの雑誌広告には、秋であろうが冬であろうが、女性はビキニ、胸のあいたノースリーブ、時には何かに縛られた姿や寝そべった格好で以下のような言葉と一緒に掲載されている。
「ドッキリFカップ袋とじ」「美豊乳フードル選手権」「フルヌード一挙公開 世紀の美女独占スクープ ぶち抜き巻頭カラー
100万読者の皆さん、お待たせしました」(週刊ポスト8月16日号・小学館)「アイドル女優秘蔵興奮フォトコレクション」「もう止められない恥ずかしポーズ熱激バスト」(フラッシュ
8月20日27日合併号)「衝撃ヌード」「完全ヌード」「スーパーヌード」「脱いだ!」「感じるSEXジーンとくるSEX」(週刊現代8月24日31日合併号・講談社)「パンチラ、ブラチラetc 学園祭女王マル恥SHOT伝説32」(FLASH
exciting
66号・光文社)など女性は男性を興奮させるモノであるべきものとして表象され、コードとして発信されているのだ。
広告の見出しに頻繁に使われる「恥」という言葉は、モノとして扱いながらも女性は貞淑であることを求めていることを意味する。恥じらいに価値がつくから、女性が普段みせないような姿を写真に収めて消費する。被写体の女性は、自らの心情を表してはいない。あくまでも消費者が求めるモノとして演技し、写真に撮られている。つまり、女性の人格はそこにはなく、男性優位主義の商品としてだけ表現されている。女性の多くは、そうしたあからさまな女性を性の対象とした広告に不快を感じるであろう。女性ではなく、男性のみを対象にする雑誌であるのなら、なぜ電車の中吊り広告を出すのだろうか。販売数を上げるために多くの目に触れるよう、時も場所も選ばず広告を出すことは、それを目にして不快に感じる乗客の存在は完全に無視されているということになる。
また、女性の写真が添えられていなくても、以下のような広告も同様の主張である。「新しいSEX新しい悦び」「セックスの常識はここまで変わった」「お父さんの最新技術講座あなたのテクニックはまだ通用しますか」(週刊現代8月17日・講談社)「知らないと損する
女の事情 男性のための女性のからだ講座」「更年期で最大の問題はセックス」(プレジデント9月2日号・プレジデント社)
こうした文言をならべることは、男性はセックスが強くなければならなく、セックスを拒むことは常識外とする、個人のライフスタイルを全く無視した男性主導、異性愛を基本とする画一化された性指向のスタンダードを押しつけるものである。これらの雑誌類は、内容的にも成人男性をターゲットにしていることが分かるが、電車を乗るためには年齢制限も性別制限もない。子供たちは、こうした公共空間からも社会生活を学習して育ってゆく。女性が物質化され、男性はセックスをし続けなくてはならないということが公然と言われている環境におかれていれば、将来、女性の身体をモノとして評価することが当然とされることに疑問をもつこともないだろう。ポルノグラフィの氾濫により女性は商品で男性の欲求を満たすものであり、男性はSEXを主導しなければいけない存在であることを子供たちは学習させられている。そうした空間が都市の一部を公然と構成しているのである。
2. 氾濫するポルノグラフィ
公共の交通機関では、運賃の収入減を補うために広告収入が重要視されている。営団地下鉄の平成13年度損益計算書によると、広告収入は189億円であり、経常利益は106億円である(1)から、広告収入がどれだけ大きく企業収益を支えているかがわかる。中吊り広告は、丸の内線系に2日間掲載した場合、1,244,000円(2)もの収入が得られるため、利益を多く見込める商品のうちの一つであろう。そうした中で、掲載側の倫理基準の曖昧さが許容されている背景が想像される。都営地下鉄には、吊革広告にいかがわしいものがあったとして、東京都交通局にクレームがよせられていた。それは、車内の吊革にある広告スペースすべてにアダルトビデオの広告が両面に貼られており、不快であるというものだった。それに対する東京都交通局の対応は、広告掲載のチェックの不十分さを認めた上で、今後は“広告代理店”に“デザインの提出”を義務づけ、許可の上で掲載すると答えている。(3)
つまり、掲載側の倫理基準を明確にさせないまま、代理店への事務処理的なワークロードだけを課したのである。朝からアダルトビデオの広告を、電車に乗っただけで目の前に見せられるような社会は、生活をするにふさわしい空間であるといえるだろうか。
車内吊り広告に掲げられた言葉や写真は、販売促進のための宣伝文句であり、構成された事実である、ということは断じてない。言葉の持つ恣意性は、社会事実を表現している。つまり、社会的事実として現実に存在する思想を、忠実にコードとして視覚化しているのだ。一日の仕事の始まりである行きの通勤電車にも、労働を終えて疲れた体をひきずって乗る帰りの電車にも、通学途中であろうが、買い物の帰りであろうが、そうした中吊り広告の類は堂々と公共空間に掲げられている。
しかも、電車のなかで不快なものは中吊り広告だけではない。男性をターゲットとして売られている駅売りのスポーツ紙には、性風俗の情報が並ぶページがあるが、読者がそれを車内で広げて読むときには、そのページを他者の目にふれさせることになる。この新聞を買うのに年齢チェックはない。けれども、女性の裸体が載り性風俗店でお待ちしていますとコメントしているような、わいせつなページが最低2頁は組み込まれている。密室性の高い電車で痴漢行為に遭遇するかもしれないディスアドバンテージを抱えながら、頭上には男性雑誌の中吊り広告が女性の尊厳を落とし、隣の男性が夕刊版スポーツ紙の性風俗のページを広げているとすれば、それは社会の公共空間が女性に対しておこなっている暴力であり、セクシャル・ハラスメント以外の何者でもない。
そして自宅のポストを開ければ買春のためのチラシが投入されているのを見つけるのだ。そこには「スーパーギャルが格安で」「チェンジOK」「デリバリー」などといった言葉に彩られた、さらに商品化された女性のカラー写真が載っている。女性は配達され、返品可能で格安にて取り引きされるのだ。わいせつな題名がついたアダルトビデオのチラシを見つけることもある。最近では、若い女性の筆跡を真似て書かれた売春のチラシも入った。クマとひよこのイラストが描かれており、内容は援助交際と書かれてはいたが、どう考えても組織的なものであろう。
繁華街を歩けば立て看板に性風俗店の宣伝広告がされ、男性が求める女性像をイラストにして、そのサービスがどれほど強烈なものかをうたい競いあっている。コンビニエンスストアにはアダルト誌が一般誌と区別なく陳列されている。各コンビニエンスストア企業において、アダルト誌販売のための倫理的判断基準は設けているものの、その基準を通れば販売方法における規制はない。一度店舗に並べられれば、誰でも手にとることができてしまう。アダルト誌はそれ自体がアダルトビデオの広告も担っており、次のポルノグラフィへと誘導もおこなう。レンタルビデオ店などでは、アダルトビデオはコーナーで区切り“18歳未満立ち入り禁止”の表示が求められているが、それもなくアダルトビデオが置かれている店もある。しかも、すべてのわいせつなビデオがそこに収納しきれていない。内容的に過激でないと判断されるビデオはその仕切りの外に置かれ、そうしたビデオに近づきたくない人の目にも触れることになる。
こうした状況は、社会生活を営む公共空間において倫理的な考慮、構築が、ジェンダーの枠組みから認識されてこなかった結果であると考えられる。
それでは日本の風土に慣れていない人たちに、この状況はどう反応するのだろうか。「日本を訪れる西欧の女性が、商業メディアに氾濫するわいせつな性表現にショックを受け」、「公共空間に男性メディアがあふれている。欧米から日本への訪問者たちは第一に、自分の社会でも目に触れにくかった過激な性表現にショックを受け、第二にそれが電車のなかやオフィスなど、日常的な公共空間で消費されている事実にショックを受ける。」(上野
1998)これが表向きの正常な反応であろう。滞日が三年になるアメリカ人男性は「いいんじゃない。自分は嬉しいね、そんなものが毎日見られるなら」と答えた。これは男性としての本音というよりは、永住しない他国に氾濫している過激な性表現を、他者として面白くみているという感想である。別のアメリカ人男性は、日本の過激なポルノ漫画を買いこんで帰国の際の土産にしていた。電車の中吊り広告や、ポルノグラフィがコンビニエンスストアで簡単に手にとれることを疑問に持つ外国人は多いし、買春経験率(4)も他国と比較すれば桁が違うほど高い。こうした状況から判断すれば、日本のポルノグラフィの環境は特殊なものであるといわざるをえない。
日本では、わいせつなものに対しての規制がたいへん曖昧であり、性器の露出さえなければ表現方法や販売方法などについては厳密に考査され、規制がされていないというのが現状である。「公共空間で、あたかも女性が「見えない存在」であるかのように、わがもの顔でふるまってきた事情を反映している」 (上野1998)のだ。
3. 氾濫の環境・背景・構成
不快に感じる人が多くいても、そうした広告が公共の空間から消え去らないのにのには、資本主義という家父長制を象徴するシステムが作用しているにほかならない。すべての産業が利潤優先主義によって市場の環境を整えているからである。産業を支えるのは男性労働力であり、利潤の優先のためには人格、品位、尊厳を無視した販売促進活動が都市に氾濫しているのだ。
企業の倫理は、メディア戦略においてすべての性差別的な表現を“表現の自由”に転化して過ごしている。「日本のメディアは、欲望ナチュラリズムの文化的風土のなかで、視聴率や発行部数をなによりも優先し、「良識」や「品位」や「人権」による歯止めがかかりにくい傾向がある」(井上1995)ことは、こうした商業主義が女性のモノ化への転換効果を高め、日本にある土着の男性優位思想と融合し、人々の感覚を麻痺させている。ひとりの人間の受けた傷は法的に訴えられるが、電車の吊り広告のように同じ傷を何千人もが受けるとする場合、それは“表現の自由・言論の自由”として変換され、傷を受けたほうが“表現の自由を脅かしている”と再変換される恐れさえある。ポルノグラフィを守る環境は、経済という生産活動の副産物であり「わいせつ=広告」であることを図式化させている。
そして、ほとんどの国や地域がそうであるように、あるいは平均以上に、日本は家父長制の思想が強い土地である。それは古くからの性別分業や、世帯主主義、植民地主義、資本主義、新国際分業などによって強調され、拡大され、システムの中で都合の良いように保たれてきた。その保持する力を強めたのは、そうしたシステムの源ともいえる宗教思想や家制度といった文化的な背景であると考えられる。文化は女性の社会的階層を低いものに設定し、従属的な立場を常に位置づけ、あるべき姿を形成してきた。こうした背景に支えられながら、都市というものもまた創造されているから、ヒエラルキーのある宗教の神社仏閣を中心として形成された村・街・都市は、主従を基本とした男性中心主義の空間ということができる。宗教が人々に受け継がれてきたのは、それの持つ神秘性ではなく、規律や社会規範、形式といったものに重視がされてきたことによるから、男尊女卑の概念も規範の一部として無意識的に継承がされてきているのだ。
そうした男性中心主義のコンセプトは都市空間の構成にもみることができる。陣内秀信は「世界の中でも、盛り場が最も発達したのが日本の都市ではないだろうか」
(1999)と指摘し、盛り場の構成を三層にわけ、第一層は女性が中心のショッピング・ゾーンでその外に位置する第二層は男性が中心の飲み屋街、そしてその外の第三層は買売春の場所で構成されているとした。その背景と要素については「社会そのものの在り方とまず深く結びついている。盛り場は職・住に次ぐ第三の空間といわれる。従って、職場や仕事上の人間関係やら家族・夫婦・男女関係の在り方、あるいは住宅の機能も盛り場の成立に密接に結びついているといえる。もちろん、時間的にも空間的にも日常(ケ)と非日常(ハレ)を使い分けるのを好む日本人のメンタリティも、盛り場を支えていよう」と述べている。つまり、第一層にいる女性は日常の非物質化された女性で買い物をしてすぐ家に帰り、男性は住宅が狭くて仕事上の人間関係という日常から開放されるために第二層に行き、第三層に移って電車の吊り広告にいるような物質化された女性と非日常の空間を作るのである。女性は買い物をするという日常から離れられず、男性には非日常性を享受する特権が日本固有のメンタリティという名のもとに許可されてといるということなのだ。現代の都市空間はこうした男性を中心とした構想によって形成されているという分かりやすい分類である。
都市の外見の構成だけでなく居住空間からみれば、女中部屋の存在は女性の従属的な立場を象徴する典型ではないだろうか。明治時代後期から大正時代にかけた「中級住宅」という都市の新しい住宅のタイプには女中部屋を設けることがステイタス・シンボルであったことが当時の世相から推測できる。(濱名
1999)女中用の部屋は、主と従の関係を表象しながら住まいの間取りなどにも設計時から組み込まれていたであろう。女中の場合には、モノではなく「労働力」としての存在であるが、その居住空間の低い層を構成したことには違いない。そうした女性は、地方からの出身で、都市での女中の職を希望し、部屋を得て学校に通うなどしていた女性たちである。そして、女性の職業の多様化によって女中という職業は早くに衰退し、変わりに店員などの職を女性たちは得ることになったが、これは女性が労働力として都市に流入し、性別分業の再構築をおこなったことを意味している。
取り壊しが決定された旧同潤会大塚女子アパートは、1930年に公的な機関により建てられた単身女性専用の住宅だ。食堂、浴室、応接室、ミシン室、日光室、音楽室を備え、一定の収入基準を満たした職業婦人のみが入居可能であったことから、働く女性にとって羨望の的であったという。入居者は地方出身のタイピスト、教員、看護婦が主であったこのアパートは、女中部屋からの女性進出の大きな進歩を証明するのではなかろうか。
居住空間とはその間にあるさまざまな物理的・経済的・社会関係が展開されている空間のことである。これは、現代都市においても居住空間にジェンダーバイアスがかかっていることを意味する。歴史的に経験されている男尊女卑の概念の中で、女性がポルノグラフィの暴力を日常として受け入れさせる力関係が培われているといえるのだ。
4.
ポルノグラフィの暴力
古い通念にとらわれず自由が多くあり、時代の思想や風俗の先端をイメージさせる大都市も、女性は毎日さまざまな形態の暴力を受ける危険にさらされている。その中でも増大するポルノグラフィは女性をモノとして固定化させ、暴力を与える強力な道具であるとこは述べてきた。女性の使用済み下着に高い値段がついたり、買春のチラシがポストに投函されていたり、公衆電話の周りに性風俗の案内が張られていたりと、都市には性的特殊性が複合的な形で存在することを象徴している。「ポルノグラフィによって事実上の文化的基準が設定されるようになり、その結果性的に興奮するための刺激剤がより暴力的になったとしても、何が許容範囲内かという視点を何が性的興奮を呼ぶかという視点に合わせることになってしまう。つまり、性の不平等が女性の書き方の基準を設定しまう。ポルノグラフィが問題なのは女性を傷つけ、女性の平等を傷つけるからなのだ。」 (マッキノン1993)
暴力的なポルノグラフィは女性をそうしていいのだとメッセージを送る。非日常の思想が日常に入り込むのに何の手続きはいらないから、ポルノグラフィという非日常にイメージされる世界は、その氾濫により現実との境目が曖昧になり、日常の女性に還元されていく。もちろん、すべての男性がそうではない。しかし、潜在的な意識として、容赦ないポルノグラフィ文化の横行と男性優位思想からくる社会的要因から、日本ではかなり多くの男性がその要素を植えつけられていると考える。このことは男性性に対する脅威でもある。
5.
都市空間に埋もれる女性
現在の成層社会は、歴史が規律となり男性中心社会を揺るぎないものとしているから、都市の空間の中に閉じ込められている男女差が作用する状況はまだまだ多い。都市のハードの部分だけでなくその間を構成するソフトの面にも、それらは濃い密度で充満している。それは人間が社会的規範を遵守し生活を送るためのツールである法律などにも、その思想は十分にみることができる。民法においては昭和22年に旧民法から現在の民法に改正された際には、男女の差についてはかなり多くの事項が改善された。しかしながら、婚姻適齢、再婚禁止期間など、現在でも多くの部分がジェンダーの点からみれば不平等なものであることが指摘されている。しかし、憲法や法律で保証されている権利が男女平等であっても、人々がジェンダーにとらわれて行動する限り平等は実現されることがない。都市では多くの職業が提供されているとはいえ、女性における実質的不平等は払拭されていない。賃金に男女間の不平等が現実としてある限り、損害保険の賠償額は男性のほうが高く計算される。命の重み、命を失った悲しみは同じであるはずなのに、性差によってその価値にも差がつけられているのだ。
街のあちこちで見られる「おふくろの味」という言葉は、女性は家庭で日々の食事を作ることを示唆し、人々の意識の下にそれを植えつける。女は料理がうまくなくてはならず、おにぎりと味噌汁を作るものだとされている。ミルキー・キャンディーの袋に書かれている「ママの味」は子育てをするのは母親であることを前提とし、パパが子守に熱心さを出せば、ママがだらしいがないからだと査定をされる。女の役割は第一に母親であることであり、女の場所は第一に家庭であるとされる固定化された社会概念、通念はさまざまな形態の暴力を生みだし、女性を都市空間の一定の域から脱出することに邪魔をしている。女性は家庭の枠から出ることが困難で、枠の外にでたらば不利な条件に見事なまでに囲まれるのである。そこで、女性が最大に自分を守れる手段は、家庭の中に入り自分はそれでよいのだと自らを納得させ、自決権を放棄してそこにとどまることである。ドメスティック・バイオレンスを受けても死ぬまで耐えるのは、女性が社会通念に育てられ、学習してきてしまった最悪の結果であるといえるだろう。これは人間として生まれた価値を正当に生きていることにはならない。そして、この不幸は女性だけのものではない。社会通念に従って二元対立した一方の性の特性を持たなくてはならないとするとき、男性もその固定化された使命において悩まされる。そうした圧迫された意識は、所有物と誤認される親密な関係の女性に暴力として還元されるという悪循環を断ちきらせない。家庭内でおこる問題は、プライベートなもので他人や行政が立ち入るべきでない問題として、たとえそれが暴力であっても都市の表面から隠されてしまいがちである。都市におけるドメスティック・バイオレンス被害者の安全や生活は、どのように確保されてゆくべきであろうか。社会的弱者をそうした域に閉じ込め、声をあげられない環境を社会構造がつくりあげることにより、都市は暴力を容認しているのではないだろうか。都市に配置された医療、司法、行政のシステムはこうした問題にどれほど連携して機能しているのであろうか。
東京は安全な都市だと言われる。しかし、たとえ深夜の歩道を暴行にあわず運良く歩けたとしても、道の両脇にある家屋のどこかでは家庭内で暴力がふるわれている。都市の隠された部分にまで、あらゆる暴力がなくなるための再構築が行われてしかるべきである。
6.
ポルノグラフィが消えるために:ジェンダー概念による都市の再構築
日本の都市はあまりにもマジョリティを中心として考えられているため、弱者が表に出てきずらい構造をしている。バリアフリーでさえ、つい最近に実現化したことであり、それまでは地下鉄にたどりつくには階段を下るしかなかった。点字ブロックの上にはためらいもなく自転車が止められ、狭い歩道と段差は車椅子を拒んでいる。こうした格差をなくすためには、常に社会を構成するすべての層の立場から都市計画が見直されるべきである。その中でも都市にばらまかれた性暴力という問題を解くためには、都市生活者がジェンダー・フリーということを正しく理解し、ソフトの面からのアプローチをしてゆくことが有効だと考える。家制度を基礎にする、男だから女だからといった思想がどれだけ個々の負担となり自由を踏みつぶし、行動や思想の範囲、そして可能性までを制限しているであろうか。都市空間において、男女の間で体験や利用の仕方の違いや隔離があることは明らかである。それらを解消するには、権力を象徴するものだからといって、神社や大名屋敷跡などの物理的なものを消去したところで解決はされない。人々の意識の中を変えることが重要なことである。
家族に依存していた第一次的な福祉志向をコミュニティに移植することで、個々の社会に対する関わり方や責任が均等化されるだろう。家族のもつ再生産の機能を家制度の概念から切り離し、“個々”を社会の主体とするのだ。社会は個人のライフデザインを妨げないように、あらゆる障害がない環境を提供しなくてはならない。ハードの部分で考えれば、旧同潤会大塚女子アパートの拡大版のような、生活の質や目的に合わせた、家族でなくコミュニティを単位の基本とする新しい集合的居住空間が都市に出現してもよい。
そうした未来のためには、長期的な視点による意識改革が必要なことであり、それには教育が大切な役割を担う。教える大人の側が最初に理解しなくてはならないことでもある。警察官が配偶者に暴力を振るっているような場合、その警察官が家庭内暴力の場面に遭遇しても、それが暴力であると客観的な判断をつけることはできないであろう。つまり、たまごが先かニワトリが先かといったら、それはニワトリなのだ。ただし、このニワトリはすでに先入観とか固定観念といった菌に冒されているから、あまり期待はできない。しかし、そのニワトリのたまごが成長し、だいぶ改善された思想で次のたまごにつなげてゆければ、いつかジェンダー・フリーの思想が構築され、都市の機能も大きく変化するに違いない。それは見かけだけでなく本当に自由な都市である。
一日でも早く古代の人は野蛮な思想をもっていたと、未来の人から笑われたい。
参考文献
井上輝子「メディアが女性をつくる? 女性がメディアをつくる?」井上輝子、上野千鶴子、江原由美子編『表現とメディア』1995年 岩波書店
上野千鶴子
『発情装置』1998年
筑摩書房
陣内秀信「日本の都市文化の特質」『近代日本文化論5
都市文化』1999年 岩波書店民俗用語でケとは日常の生活=ふつうを指し、ハレとは盆・正月、結婚式など非日常的な時間のことを指す。
濱名
篤「階層としての女中」『近代日本文化論5 都市文化』1999年 岩波書店
キャサリンA.マッキノン『ポルノグラフィ:「平等権」と「表現の自由の間で」』1993年明石書房
影山穂波「都市における単身女性の居住空間の変容:同潤会大塚女子アパートの事例から」1996年
木下禮子ほか編『シングル女性の都市空間』若林芳樹、大明堂2002年
熊谷圭知・影山穂波「大塚女子アパート住民の居住史と居住環境意識に関する研究」財)地域社会研究所・財)第一住宅建設協会1997年
アンドレア・ドウォーキン『ポルノグラフィ
女を所有する男たち』 1991年 青土社
(財)東京女性財団編『「ことば」に見る女性』1998年
日本弁護士連合会「女らしく男らしくって、きゅうくつじゃない?」
わたしの会/江東区ウィメンズフォーラム「地域のビデオ店・コンビニエンスストアー・書店におけるポルノビデオ・ポルノ雑誌の実態調査」1997年
(1)
平成13年度財務諸表(平成13年4月1日から平成14年3月31日まで)
http://www.tokyometro.go.jp/index.htm
(2)
B3サイズ 1,670枚 丸の内線系(丸の内線、東西線、有楽町線、南北線、埼玉高速、東葉高速)
http://wel.tokyometro.go.jp/d_advertisement/index.html
(3) 東京都 生活文化局 広報公聴部企画管理課
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2002/05/60C5E500.HTM
(4)
18〜49歳男性の過去1年間の買春経験率はアメリカ0.3%に対し日本は13.6
人権問題研究室室報第29号(2002年6月発行)石元清英
http://www.kansai-u.ac.jp/hrs/publication/japanese/news/29/news_29j.html