東京が抱える都市問題−長期的プランを目指して−

稲田 知生     

 

はじめに

 都市計画が活発に提案されるようになったのは産業革命以降であるが、その動きが時代の特定の思想と結びついて機能し始めるのは20世紀になってからである。近代主義は都市空間を一定の方向で構築した。それは環境を合理的に制御するものだった。だが、都市の多元的可能性を無視した運動は多くの弊害をもたらした。東京もそのような都市のひとつだろう。

 

第1章        東京を歩いていて感じること

1.東京の街角

東京の都心を歩いていて、遭遇する幹線道路は、いずれも、乗用車であふれている。車の流れはあまり良いとは言えず、23区の主要な道路は巨大な駐車場と化していると言えなくもない。大量の自動車がこれだけ長い間、都内を巡回していることは周辺の環境にも良くないだろう。都内でこの悪条件から逃れているのは、皇居だけであろう。周知の通り、皇居の周りを大量の自動車が行き来しているが内側にある大量の樹木、多数の濠がいくらか汚染を軽減しているのではないだろうか。

車の交通量の多さと同時に目に付くのが、歩行者の頭上の遥に上を横切る首都高速である。池袋のサンシャインシティ周辺の交差点に立つと昼間でも、日光の当たらない日陰になっており、肌寒さを感じる。何よりも池袋駅から歩いていく間には、サンシャインシティの足元からその全景を見渡せないのは残念でもある。

新宿駅から都庁へは、地下道が整備されている。同様に利便性を考慮して、都庁周辺には、連絡橋が張り巡らされている。連絡橋の存在は周辺に勤めるビジネスマンにとっては業務を円滑に進める為にはある程度の役割を果たしていることだろう。ただ景観はあまり良いとは言えないのではないか。それでもこの連絡橋はメリットが大きいし、下を通るのは道路という点で、全面的にその存在を否定しようとは思わない。ここ数年だが駅周辺の再開発をする上で駅ビルの建設とともに、主要な建物を結ぶ連絡橋を参照してみよう。立川駅の事例を参照してみよう。立川は過去数年で、大規模な再開発が行われた。立川駅の乗降客数は吉祥寺を追い抜き、一時期、多摩地域をリードしていた八王子を凌ぐ勢いで立川駅周辺の開発は進んでいる。今や多摩地区のキータウンになりつつあると言っても過言ではないだろう。もとより立川市は東京で大規模な災害が起きた場合、霞ヶ関の政府機能が移転してくる為、現在のような都市開発は宿命と言えるかもしれない。南北に伸びるモノレールの開発はより一層、立川駅の重要度を向上させた。ただ、事態が全て好転しているように見える立川の再開発も、重大な問題を抱えている。駅周辺の再開発は、人の流れや車の往来などの交通面では大きなメリットがあったが、四方に伸びる連絡橋は、地上への光を大幅に遮断している。立川駅周辺は、都庁の事例とは違い、その下には商店も並んでいる。巨大な連絡橋ができたことで、人の流れは、その上にのみ集中している。つまり、駅周辺の以前から存在していた商店には再開発はデメリットになったのではないか。逆に、新宿駅周辺の再開発は、粗末なネーミングを除けば成功していると言える。人が移動するだけの連絡橋というより、その場所をも楽しむことが出来る遊歩道といった趣がある。

渋谷駅の周辺は、再開発が活発に行われているわけではない。街の中では新しいディスカウントショップが開店したりしているが、それほど大きな変化はない。ただ駅前に多くの歩道橋が乱立していることは景観を損なってはいないだろうか。

 

2.都市計画の不透明さ

東京23区、広くは東京都内で行われた開発事業は、その大部分が巨大なビルを建てたり,取って付けたような娯楽施設の建設に終始しており、いささか周辺環境との連動性を欠いていると言える。そのため、地域を活性化し、市民の生活環境を向上するはずの再開発が、より一層、雑然としたものに変化させている事例も少なくない。また、都内には、開発する前から、道路が縦横に交差し、民家が密集している地域もある。いわゆる下町と呼ばれる地域はこの範疇に入るだろう。都内の主要駅のうち、上野駅は、電車こそ何本も走っているものの駅前はかなり雑然としている。同様に、駅前から周辺部へスムーズに移動できる経路が不足している場所は意外にも多い。これはもちろん東京に限ったことではないだろう。では、なぜこれほどまで多くの無秩序な再開発が今まで行なわれ続けてきたのであろうか。その1つの原因として、シヴィックセンターの不在という問題がある。シヴィックセンターとは、単純に言い換えれば、新都心のことである。新都心が日本にないというわけではない。本来、シヴィックセンターの建設で掲げられている建設計画というものは、市庁舎などを核に、公共建築、広場、公園、大通りが構成されていくものである。この都市計画を効率的に実施しているのは、言葉の通り、アメリカである。アメリカでは1910年代〜20年代にかけて積極的に行われた。一方、東京は建物、モニュメントをどのように配置するかは後回しにして、道路、広場、駅という交通インフラの整備が先に行われた。この特異な点が、日本の都市計画に暗い影を落としていると言えよう。都市を再開発するにも、器となるべきシヴィックセンターを中心とした都市開発がないため、完成後の姿も必然的に統一性を欠いたものになる。有体に言えば、ヨーロッパでは、都市構造は全体が調和した形で一つの枠組みを持っている。新しい商店が出来る場合は、進出する街のコードに合わせて、決まった枠にパズルのピースをはめるように配慮がされる。日本の現在のモザイク状の都市構造は、長年に渡り、都市計画を軽視してきたゆえではないだろうか。もちろん日本にも都市計画なるものは存在した。だが、現在に至るまでそれが全て実行されることはついになかった。次の章から日本の都市計画の黎明期を見ていくことにしよう。

 

 

第2章        日本の都市計画

1.都市計画の始まり

明治政府になって、初めて提案された都市計画は、1888年の東京市区改正条例である。市区改正は今日で言う都市改造のことである。この都市計画のテーマは、都心とその一帯のインフラ整備であった。曲がりなりにも1916年まで事業は実施された。その成果は、@路面電車敷設の為の道路拡幅、A上水道の整備、B日比谷公園の新設という3点が主な物である。実質的にはこの3つが計画が実行された全てでもある。ここで注意しておきたいことは、近代国家に必要な公共施設(行政、軍事、教育などのための大規模な施設)の用地は、市区改正によって生み出されたのではなく、江戸時代のストック(主に旧大名屋敷や社寺境内地)の転用で済ませていたという事実である。具体的には、明治政府の官庁、兵営、皇族の住宅が置かれ、現在では、官公庁や企業の集中する霞ヶ関、日々谷、丸の内、大手町は、明治初期に官有地となった旧大名屋敷がほとんどである。また、後楽園、戸山山荘があった旧水戸、尾張両徳川家の各藩邸は陸軍用地となった。他には、周知のことだが東京大学は前田家の屋敷跡であり、新宿御苑は内藤家の屋敷跡である。1873年に東京で初めて開設された5つの公園(上野、芝、浅草、深川、飛鳥山公園)はどれも明治初期に官有地となった旧社寺境内地である。このように転用可能な江戸のストックが大量にあったがゆえに、近代国家の首都に必要な根本的なインフラ整備は行われなかった。また政府の要人達に官庁街のみならず、都市全体を見据えて社会資本整備をするという発想、都市計画の必要性に対する認識は生まれにくかった。市区改正にともなう電車の敷設は、東京市民の日々の行動圏を拡大し、都市の施設立地や土地利用に変化を与えた。こうして東京は近代の大都会として成長、発展し、その延長線上には追加的なインフラ整備、抜本的な都市改造が再び必要になる。

 

2.第一転換期・大正時代(関東大震災前)

1919年、都市計画法が公布され、近代都市計画の諸制度が日本に導入される。前年の19185月には、内務省に大臣官房都市計画課が設置されている。政府の行政機構に正式に所管する課が誕生したことは、都市計画という仕事の存在を政府が公式に認知したと考えてよい。これは画期的なことだろう。そこには、後藤新平(18571929年)の尽力が大きかったと言える。都市計画に理解を示し、東京の都市改造に情熱を燃やす政治家・後藤新平の特異な資質は、台湾と南満州における経験で養われた。後藤新平の決断力と推進力により、都市計画の法制化への道筋は立ったが、都市計画調査会における法案審議は、大蔵省の執拗な反対にあい、草案にあった都市計画の財源、都市計画の実現化のための重要な条項(国家補助、土地増価税、超過収用など)はほとんど削除されるか、骨抜きになった。大蔵省側は都市計画を国家の緊急事業だとは考えず、即座に実行することに消極的だった。

それでも191944日、都市計画法と市街地建築物法が公布される運びとなった。都市計画法は財源の点ではきわめて不十分だったが、都市計画の計画立案、行政機構、規制誘導という点で東京市区改正条例より大きく進歩している。特筆すべきは、不十分ではあるが、超過収用の制度を認めたことである。超過収用とは近代都市計画のルーツである19世紀のパリ都市改造で採用された手法である。これは道路、公園など公共施設予定地の周辺部も土地収用し、区画を整理し、それを売却し、都市改造の財源に充当する。これによって、沿線の街並みは整備され、開発利益が公共還元されるという方法で、日本の都市計画法では、開発利益の還元、土地経営を第一目的とせず、建築敷地の造成に必要なものに限定するという条件が加えられて制度化された。その条件が足かせとなり、戦前の実施例は3例のみであり、このうち2例は河川・運河関係であり、本来の都市改造として実施されたのは新宿西口の広場造成の1例のみとなったことも否定できない。ただし、都市計画法の制定はその後の日本の都市計画事業の1つの指針になったことは間違いない。

 

3.第一転換期・大正時代(関東大震災後)

192391日に起きた関東大震災では、震災により市街の大半が焼失した。ただ都心部では、大手町、有楽町、日比谷の一角が焼失したが、内濠、外濠、日比谷公園が防火帯となり、丸の内は無事であった。また、山の手(本郷、四谷、麻布、赤坂の各区)も大部分は火災の被害を受けなかった。これらの地域は台地と低地の境界の崖線、社寺や大型の公園(上野公園、靖国神社、日枝神社、芝公園)、敷地内のオープンスペース、すなわち大学や軍用地によって火災の延焼がくい止められた。それでも、東京市全体では、市域面積の42パーセントに相当する3342ヘクタールが焼失した。注目すべきなのは、世界における都市大火の順位のうち、第1位から第8位まではサンフランシスコ大火とシカゴ大火を除けば、すべてが日本の都市で発生しており、関東大震災は戦前では世界最大の都市大火なのである。震災の翌日、92日、第二次山本権兵衛内閣が成立し、後藤新平は主要閣僚として内務大臣に就任する。後藤新平が目指したのは、復旧ではなく、あくまで復興、つまり、抜本的な都市改造であった。後藤新平がまとめた「帝都復興の儀」の中には、東京が焦土と化したこの悲惨な状況を逆に絶好の機会と考えるべきだという趣旨がかかれている。その後帝都復興事業は、議会や地主の抵抗にあいながらも、19231224日、特別都市計画法と震災善後公債法が公布され、開始されることになった。この事業の結果、震災の焼失区域の約9割に相当する3119ヘクタールの区域で区画整理が実行された。これは世界の都市計画上、例のない大規模な既成市街地の大改造となる。復興計画によって様々な幹線道路が整備されたが、その100パーセント近くが1930年までという短期間で完成した。これは明治の市区改正の歩みと比べると画期的な速さだった。この事業の中で、東京の都市、下町の道路はこの時つくられた。また、河川運河にも復興事業の手が加えられた。震災前、東京の中小河川、運河に架けられた橋はすべて木橋であり、隅田川に架けられた吾妻橋、永代橋などは鉄骨だったが、橋面は木造であった。このため震災の火災によって大部分の橋梁は焼け落ちてしまい、交通は杜絶した。結果として、市民は、逃げ場を失い、多数の人命が失われることになった。そして、公園は、震災の重要な教訓として、単に市民の健康、レクリエーションのみならず、防火帯や避難地としてもその重要性が認められた。復興事業によって三大公園(墨田、錦糸、浜町。国施行)52の小公園(小学校に隣接させるもの。市施行)が新設され、財閥の寄付による公園も作られた。この結果、東京の公園のストックは飛躍的に向上することになったが、その後、今日に至るまで帝都復興事業を実施した都心・下町では公園緑地の追加はされていないことに注意しなければならない。

 

4.第二転換期・昭和時代(第二次世界大戦後)

1945815日、日本は終戦を迎えた。前年11月より米軍爆撃機による大規模な空襲が始まり、東京をはじめ日本の主要都市は徹底的に破壊された。東京は1945310日の東京大空襲によって甚大な被害を受けた。罹災区域は区部のほぼ全域に及び、その罹災面積16100ヘクタールは東京区部総面積の約3割に相当するものだった。東京の復興計画の検討は終戦前に始められた。大橋武夫(19051981年)は歴代の内務官僚の中で、都市計画に対する理解と実行力を兼ね備えた数少ない人物の一人であった。1945810日頃、終戦を事前に知った大橋武夫は防空都市計画の作業をすべて中止させて、戦災復興都市計画の開始を課員に命ずる。廃止された防空総本部のスタッフも国土局計画課に戻り、この作業に加わることになった。その後、しばらくの間、閣僚達は終戦後の応急処置に追われていたが、19451230日、「戦災地復興計画基本方針」が閣議決定される。この閣議決定という形で市街地公有化の考えが、政府の公式の方針をして打ち出されたのは、明治維新以来、今日に至るまで唯一である。復興計画では、東京から工業地帯を衛星都市に分散させること、同時に、人口は300万人を適当とし、最大500万人とすることが掲げられた。計画の基本方針は明確であったが、東京の戦災復興事業は全国の他都市と比べて事業の着手が遅れた。1948年にはすべての罹災地に仮設住居が立ち並び、戦災復興ではなく、既成市街地の都市改造のようになっていた。復興事業の立ち上がりの遅れは、東京の戦災復興計画の実現には痛手になった。それに、ドッジラインによる政府の緊縮財政の方針が追い討ちをかけた。また、戦災復興院総裁に就任した小林一三は、地方自治の観点から、戦災復興事業を国の事業として執行することを認めず、自治体執行を強く主張した。五大都市も市施行(一部の都市は県施行)になった。小林一三の地方自治の主張は理念としては正しいのだが、自治体の首長や地方議会が都市復興にあまり熱心でない場合は、問題が生じてくると言える。東京の戦災復興事業について、大橋武夫ら戦災復興院幹部は、国と都の共同体制で行うことを進めたが、東京都知事安井誠一郎は都独自で執行するとして、これを断った。だが、その一方で復興事業の実施にあたって、東京都の財政支出はきわめて不十分だった。安井誠一郎は都民の苦痛を少なくするという口実で大規模な復興には手をつけなかった。大橋武夫はそのような安井の施策を「選挙目当て」と揶揄している。結果的には安井誠一郎主導の復旧が行われた。

 

 

5.第三転換期・昭和時代(高度経済成長)

安井誠一郎は、19554月には東京都知事3選を果たす。それ以前の1950年には、首都建設法の立法化が図られたが、もはや東京のインフラ整備に対する国の特別支援はなかった。東京区部の人口は、1945111日では278万人にすぎなかったが、1950101日では539万人と急増し、1955101日では697万人と戦前のピーク人口を突破し、1960101日には831万人に達した。急激な都市の膨張のなかで都市計画が着手されず、都市の社会資本整備が一向に進まないというきわめてアンバランスな状態が生じた。安井誠一郎はこの状況を異常だと感じたそうだが、知事という職に就く者は、かねてから将来の状況を予測していく能力も求められるのは当然であろう。他にも、東京の都市計画実行に致命的な打撃を与えたのが、建築線の廃止である。建築線とは、欧米で広く採用されてきた都市計画、建築行政の古典的で重要な制度のことである。これは建物と道路の位置関係を規定するもので、建築線から飛び出して建物を建ててはいけないという単純明快な規制である。この制度さえあれば、都市のスプロールを防ぐことができただろう。ゆえに、1950年、建築基準法の制定の際、建築線制度は「非民主的である」として廃止されたことは、根本的な誤りだったと言える。次に東京の姿が大幅に変貌するのは、高度経済成長の最後に訪れる東京オリンピックの時である。1964年の第18回オリンピック東京大会に必要な道路整備という大義名分を得たことにより、首都高速道路と関連幹線道路の整備は実行される。オリンピック関連街路として一挙に22路線、延長54.6キロメートルが事業され、放射4号線(青山通り、玉川通り)、放射7号線(目白通り)、環状3号線(外苑東通り)、環状4号線(外苑西通り)、環状7号線の新設・拡幅が実施され、昭和通り(放射12号、19号線)の立体交差化が図られた。また、首都高速道路の各路線も着工された。この結果、1960年代半ば、東京都心の交通事情は一時期、大いに改善された。だが、一方で失った代償も大きかった。オリンピック道路、首都高速道路は道路の景観設計という配慮に欠けていた。その標準断面図には街路樹・植栽帯は皆無だった。帝都復興事業によってつくられたゆとりのある植裁帯は自動車交通のために撤去され、四列並木は二列に改められた。また、隅田公園のプロムナード部分は首都高速道路の貫通により犠牲となり、消滅した。そして、このオリンピック関連の都市改造を最後として東京の都市計画は停止し、以後、山積する課題を残して現在に至っている。結局、戦災復興事業の縮小により、都市開発は駅前地区のみに限定され、都心、下町の外周に、震災、戦災と2度の復興事業からこぼれ落ちた市街地が拡がった。

 

 

第3章        よりよい都市計画を模索して

 1.現在の東京の問題

東京の下町は、木造の家屋が今でも密集しており、防災上、非常に危険な地域となっている。もちろん、そこには下町独特の趣きも存在するだろうが、防災への意識も高まりつつある。何より現在の状況に至ったのも戦災復興事業を大幅に縮小したことにほかならない。また、木賃ベルト地帯の都市改造は、単に都市計画の課題というより、今後、社会的弱者の救済や民族問題というマイノリティの問題としてとらえることも必要になる。東京には決して都市計画が不在だったのではない。ただ計画どおり実行されなかっただけである。近年、行われている新興の都市開発も原点である帝都復興事業に学ぶべきだろう。

 

2.緑地利用について

東京の緑地は、皇居を中心に上空から観ると、多いような印象を持つが世界の都市と比べるとまだその水準は低いと言える。1人当たりの公園面積は平成13年では23区が2.96平方メートルなのに対してニューヨークは平成9年で29.3平方メートルである。一見するとコンクリートに埋め尽くされているようなニューヨークであるが公園面積は東京の10倍近くある。周辺に巨大な公園があることを考えればこの資料も納得できる。参考までにパリの数値を見ておくと平成6年で11.8平方メートルになっている。この数字からは意外な印象をうけるがパリは大公園が少ないからかもしれない。それでも東京よりは緑地が目立つような都市計画が行われていると言えよう。東京が目指す方向はパリの姿が参考になるのではないか。大公園を造成するような土地がないことを考えれば現実的と言えるのではないか。

 

3.東京の景観維持の難しさについて

近年では市民団体を中心に景観保護の活動は起きている。ただ石原慎太郎東京都知事が最近の定例会見の中で述べていたが、東京は景観を保護するにもその基準となるような景観さえほとんど残っていないと言えるだろう。それは住民の主観に頼っているところもある。欧米諸都市のように住民と観光客の双方が納得する街をつくるのはまだ遠いかもしれない。

 

4.これからの都市計画の指針

東京の都市計画を大きく決定づける要素は、やはり、関東大震災、第二次世界大戦、高度経済成長(東京オリンピック)であった。実質的には、前者の2つが大きな契機となったと言えるだろう。3番目の開発も、本来、前者の2つの復興が成功していないうちに行なうべきものではなかったと言える。東京の都市計画では、既存の公共空間のストックに無理やり新設の事業を加えることがしばしばされてきた。それゆえに、現在の東京のような超過密都市の姿が出来上がった。個人的には、都内で少しずつ現れている「遊び」の空間を持つ場所がさらに増えることを期待している。まだ不十分であるが、そのベクトルは良い方向へ向きつつあると考えている。都市開発に必要と思われる重要な意識は、

    利便性

    景観形成

    安全性

ではないだろうか。いずれも重要であり、優先順位を付けられるものでもない。ただ、現在までの日本の都市開発は、利便性にやや片寄っていたと言えはしないだろうか。やはり、他の2つの要素も軽視してはならない。結局、「その場しのぎ」の開発は将来に大きなデメリットになる。特に、安全性という面では日本が地震大国であることも肝に銘じておかなければならないだろう。いまだに日本は、長い不況の中にいる。ただ、この不況も1つのカタストロフィーとは言えないだろうか。先代の教訓とバブル期の反省をふまえて、都市開発が行われることを期待したい。

 

 

参考文献

 『東京の都市計画』 越沢 明   1991年 岩波書店

 『日本の風景・西欧の景観』 オギュスタン ベルク 1990年 講談社  

 『首都圏白書』  国土交通省   平成14年  財務省印刷局