日本の障害者観
小松 智行
はじめに
障害者の福祉、教育における発展は近年急速に発展した。しかし、その発展に至るまでには多くの困難があった。それは障害者の福祉、教育は人の思想にまで深く関わっているからだ。西欧における障害者の扱いは、無用なものとして殺された時代から嘲笑の対象とされ他時代へ、次いで慈善事業、または医療的な面で保護の対象とされた時代、そして現在の教育の対象とされる時代となる。日本も似たような経路をたどるが、日本は障害者教育、福祉の開始は遅い。厳格に言えばGHQというアメリカの介入があってはじめて公的義務として開始された。つまり日本は障害者教育、福祉においてアメリカの障害者観念が大きく関っていると言えるだろう。そのアメリカは西洋の思想に大きく影響されている。そのため、日本の障害者教育、福祉を語るにはまず欧米の障害者観念の発達を見る必要があるのではないだろうか。
欧米の障害者観の発達
ロック(1632‐1704)の経験論的教育論が障害者に発達の可能性を見出した契機となったと言われている。経験的論教育論とは人間は白紙の状態から経験を通し知識得ながら認識を伸ばし発展するという考えで、既存の注入教育や伝統的な教育方法を否定した革新的な考え方であった。この考え方が後にフランス啓蒙思想や障害者の発達への可能性を見出していく者たちに深く影響を与えていく。すなわち、フランス市民革命を契機に障害者教育における大きな人間観の転換が行われたのであった。
近代精神医学の創始者と言われるピネル(1745‐1826)はそれまで精神病院に拘束されていた精神障害者たちを「罪人ではなく病人なのだ」と考え、障害者をはじめて人間視した人物である。後に日本にも伝わることになる「白痴」という言葉も彼が名づけたものである。彼に「白痴」と名づけられた障害者たちは精神病院による拘束から散歩などを行えるまでになった。そしてピネルの弟子であるエスキロール(1772−1840)はそれをさらに発展させ、「白痴は病気ではなく状態である」とらえ、それまでの精神病との混同を整理した。しかし、ロックの人間観に踏み入ることができず、教育効果の期待できない恒久的発達遅滞にとどまる人間とする当時の白痴観にとどまったままであった。
その一方でペスタロッチ(1746−1827)というかつて見られないほどの対象の広がりと人間観を持った近代教育の思想家がいた。彼は教育効果のないと考えられていた白痴の子供たちを対象に特殊養護院を構想していた。しかし、周囲のこうした子供たちの教育効果には懐疑的であり単なる構想に終わってしまった。それでもなお彼のひとりの障害児に対して成長や発達の程度に見合った教育内容・方法を提起している点は先見的なものであり、その後高く評価されることとなった。
フランス市民革命も終わりを告げたころ、イタール(1774−1838)が森から発見された野生化した少年の研究に取り組みが行われ、それが「白痴の使徒」と呼ばれるセガン(1812-80)に影響を与えた。セガンは教育の対象外に追いやられた白痴の子供たちの指導に積極的に取り組んだ。さらに彼は重度の障害者も教育の対象と見なした。彼は90人の白痴児に自らの教育法を適用することを許され、そして自ら私立の白痴学校を作るまでに至った。そしてその成果を元にセガンは日本を含む多くの国に影響を与えた。そこで最も注目すべきは彼のアメリカでの活躍である。彼はアメリカの障害者学校の基盤を作り上げた。セガンはアメリカで白痴学校設立運動をしている人々に深い影響、また活力を与えた。そしてその運動から精神薄弱児の学校が開かれることとなった。その後、セガン本人がアメリカに渡り精神薄弱児の研究に取り組んだ彼の論文『白痴の衛星と教育』でかれは白痴と呼ばれる人々の社会化、道徳化することを打ち出している。また後に出される論文『白痴の道徳的治療、衛星および教育』では「社会関係における権利と義務という観念を白痴の生徒にはぐくみ、彼らを主体的な人間へと陶冶し『社会化』するという教育学的な目標のもとに、精神療法と教育学とを統合しようと試みている」(田中俊雄、1991年)。しかし、このセガンの考えに対して20世紀初頭に遺伝子決定論が世界中に大きな影響を与えることとなる。
ビネー(1857−1911)は知能検査(ビネーテスト)を考案した。それは学業不振の子供たちにそれぞれにあった適正な教育をすることが目的であった。ビネーの知能検査はアメリカに渡り、アメリカの知能検査の原型となった。またドイツでもIQテストができたこともあり第一次世界大戦以降、知能検査の普及は進んだ。さらに、それを元に生まれたアメリカでの障害者発生予防処置などの動きが沸いてくるにつれ、知能検査は発達に関わらず生まれたときに決定されているものであり、教育などの努力は無駄であるという考えが生まれてきた。つまり、知能検査の結果は優生学に利用され、人間の発達に対し悲観的な見方を証明する資料として用いられた。知能検査を予想外の方向で利用されたビネーも遺伝子決定論に対し抗議をしたが、それでもなおアメリカでその考えは広がっていった。結局、1900年から1920年の間、熱狂的な優性学のために障害者教育は足踏みをしなければならなかった。
1950年代はじめこの分野に関する活気が徐々に回復していくと共に、軽度遅滞児に対して特殊教育を提供する動きが出てきた。現在では重度遅滞児の教育ですら当たり前になっているが、その当時は大きなステップアップであった。1970年代後半以降、ノーマライゼーションの概念が現れ、かつての遺伝子決定論は多くの批判を受け弱体化してきたものの、未だに日本を含め多くの国においてその考えが障害者を含めた多く差別を受けている人々への発達保障において大きな障害となっている。
現在の先進国の障害者福祉の大きなテーマは、地域社会の中での継続的な生活である。例えば、リハビリテーションやデイサービス、ホームヘルプなどを地域に根ざすことである。近年アメリカや、イギリスで進められているものにグループホームがある。それは重度の障害ではなく、医療ケアの要らない障害者に限るものであるが、基本6名(それを越える例も多い)の障害者が共同で暮らすというものである。しかし、現在ではグループホームというたった一つのモデルが万人に当てはまるのかという疑問が残り、さらなる柔軟化または別の方法などが求められている。今日においても障害者自身が参加、行動する運動は珍しい。特に身体障害者に比べ知的障害者はなおさら珍しいといえる。障害者の運動で「ピープル・ファースト」運動というものがアメリカに存在する。これは知的障害者運動の例のひとつで、日本からの参加者もいる。そのような障害者本人たち自身が参加するという運動は各方面で近年広がりつつある。
日本の障害者観の発達
今日、知的障害者を地域社会の中にとりこみ、生活していこうという姿が現れるまでにさまざまな過程があった。それは施設から家族へ、家族から、地域へと移りゆく過程であり、今現在の地域の人々への理解と関心を求めるさまざまな活動の困難さを物語っているように見える。
日本において戦国時代さらには近世においても障害児の間引き、棄児、子殺しは頻繁に行われていた。また障害児の見世物小屋まであったという。生活の実態として特別に保護されているものを除けば、障害者は見世物か乞食かを選ばなければ自力で生活できなかったと考えられる。その当時世の中は石高制であった。そこでは障害を持つという理由で年貢負担、夫役が免除されることはなく、その義務を果たせないということは本百姓という地位を剥奪されることを意味し、さらには一族を追い出されることにつながった。加賀藩のように追い出された者たちが非人古屋と呼ばれる救済施設は入るような仕組みになっているところもあったがそれは元々飢饉対策として設けられていたものにすぎなかった。
1879年、手島精一はわが国最初の障害者教育論を展開した。イタールやゼガンの感覚教育の方法を紹介すると供に「開明諸国では官立、私立あるいは民立の学校によって、すでに久しくその教育が行われているのにわが国では全国に推定4万人内外の痴者を数えるにもかかわらず、いまだその施設がない」と欧米に遅れている障害者教育を指摘し、「痴者」を対象とした学校の設立を主張した。しかし明治政府でその意見が生かされることはなかった。
地震による孤児の救済にあたった石井亮一はその中で知能の遅れた子供たちに関心を持った。彼はその当時まったく資料や知識がない中で二度の渡米により「白痴」という概念を会得し、またセガンの婦人からセガンの教育法を学んだ。そして1891年滝乃川学園を創設し、本格的な精神薄弱児の指導を開始した。また日本で初めての精神薄弱に関する専門書『白痴児、其研究及び教育』を著すなど活躍した。
その後いくつかの施設が作られていったが、そのすべてが民営施設であり費用がかなり高額で、利用できたのは比較的裕福な家庭の子供に限られた。このように明治中期にスタートをきったわが国の障害者施設は、対象者を世間の偏見や差別から保護すらためとして、結果的には一般社会から隔離されることとなった。また、障害児を学校教育の対象として受けとめるまで社会通念が成熟していない段階であったので、滝乃川学園の後にできた白川学園や私立日本心育園などは一般的な「学校」とは別のものとして障害者教育は始められた。そして、大正から昭和にかけての不況期には障害者は稼動力として評価されなかったため、疎外されることとなった。そのため、人道的、または宗教的な目的で施設が作られた。当時は参考とする事例もなかったため、厳しい仕事であったし、さらに安い給料であったので、使命感でなどの強い意志がなければやっていけない時期でもあった。戦時中は、建物の老朽化や食料難などにより施設内の人々の中で栄養失調により死亡する者まで出るほど継続が厳しくなった時代であった。さらには施設を軍隊に取り上げられてしまったところまであった。そして戦争が終わる頃にはほとんどの施設は閉鎖されてしまっていたし、残ったものも壊滅状態であった。
また教育の面では1880年代後半からいくつかの学校で特殊学級の代わりでもある落第生学級、晩熟生学級など普通学級と分けるものが出てきた。それは学力点で分けたのであったが結果的には障害児の多くがその学級に集まることになった。「国民皆兵」の目標の中、障害児は健常児と同じ学校で教育を受けた。就学率の向上を重要視していた政府は就学率を下げる行為は極力避けていたと予想される。そして1900年、就学率が八十%に達し聾児が顕現しはじめたこともあり、盲唖学校が開設され、盲児、聾児の就学が実現した。その一方で小学校令改正によりさらなる就学率の上昇を図ると共に重度の障害を持つ児童を就学猶予とするため、教育を受ける児童に区分をつけた。それは富国強兵の教育において重度障害者の教育は無益と判断された結果であった。さらにはこの就学免除制度は戦後にまで引き継がれることとなってしまった。
戦後の障害者観の発達
戦後、GHQにより公的責任が明確とされ、社会福祉事業は新たなスタートをきることとなった。米国教育使節団来日や、川本宇之介の「心身に異常欠損のある児童も健常児同様に教育を受ける権利がある」という進言もあり、教育基本法の中に障害児の「教育義務制」や「特殊教育」の章が盛り込まれた。そして、1947年に児童福祉法が制定され、知的障害児対策が公的責任ものとなった。しかし、当時の児童福祉法は浮浪児対策的な意味が強く保護の面が強かった。そのため、教育、訓練的な面でも組織的な面でも不十分な面が多かった。さらには、多くの戦災孤児の中に多数の知的障害児童がいたものの、全国で十数箇所にしかなかった施設にはすべておさまるわけがなかった。結果的に健常な子供たちと同じ施設に障害児を入れることを余儀なくされた。
その一方で1955年以降急激に障害者学級が増加していった。その急増は障害者の「恒久遅滞論」を元にした学力テストを押し進める能力主義を補完するためのものであった。つまり、学力テストで普通教育を受ける、受けないという一線を引いてしまうものであった。それは障害者の発達を悲観的に捕らえるものであり、さらには学力不振の子供たちをも普通教育から隔離してしまうものであった。その能力主義は障害者教育をより生活に即した実践的なものに偏らせる結果をもたらした。炊事、洗濯、買い物、農耕、飼育など教育というよりむしろ訓練と言える内容であった。それは「生活単元学習」と呼ばれ、普通教育と障害者教育との溝はさらに深まることとなった。また、学力テスト重視した能力主義、学力主義的な教育は地域によっては現在でも強く残っている所がある。そういった地域では障害者教育の世間的な理解が薄いために障害を持った人々には暮らしにくい点が多いという。また、地域に限らず学力中心の教育は身近に見ることはできるであろう。このように戦後初期に起きた能力主義的な教育は現在の日本においても根強く残っている。
一方施設はというと昭和30年代に入り、施設内に戦災孤児だけではなく家庭内の児童も徐々に増え始めた。それは、重度の知的障害児を受け入れる学校が存在していないということも理由のひとつであった。当時の養護学校や特殊学級では軽度以下の障害児は受け入れる意欲が見られなかったため、施設は彼らをすべて引き受ける形となった。また、家庭から通う児童が増えてきたことにより、衣食住をすべて施設内で済ませる従来のやり方ではなく、家庭で衣食住は確保されることにより子供たちの教育の面に目が向けられた時期でもあった。そして昭和32年に知的障害通園施設がスタートし、昭和57年の全員就学、養護学校教育の義務設置まで教育と福祉の接点として大きな役割を果たした。
1960年に精神薄弱福祉法が制定され、成人になった知的障害者が入所できるようになった。それまで満20歳に達すると家庭内で引き取らざるを得なかった。そのため、以前までは急に戻ってきた子供をどう対処したらいいのかわからず困惑してしまう家庭が多かった。そのため、子供の将来が見えず、親子心中をしたという事件が頻発した。その結果として精神薄弱者援護施設ができてきた。
戦後、障害者施設の職員側のありかたも大きな変動を迎えた。昭和30年代後半からの高度経済成長により施設の数も入居者数も飛躍的に増えた。そのため職員も増加したが、人員が増加していく施設数に追いつかなかった。そのため、公立、民間問わず人員獲得の競争がはじまった。このころまでの施設のありかたは、一人でも多くの入居者を増やし、家族の負担を軽くする点に重点をおく家族的立場に立つことが一般的であった。つまり、施設は親に代わり差別や偏見から守るという考え方であった。その結果として施設は閉鎖的、隔離的になってしまった。
昭和40年代になって障害についての専門教育を受けた若者たちが施設に職員としてきたことが、知的障害者施設にさらなる変革をもたらした。ただ保護するだけではなく施設の入居者の能力を開発することに目を向けたのだ。つまり、障害者を家族に持つ家庭のための家族福祉に多くの比重を置いた歴史的知的障害者対策が、知的障害のある人の能力開発と社会参加を目標とする、障害者自身の福祉に重点を置こうとする方向転換が見られた。入居者の量を追及する家族福祉と、障害者自身の人間性の重視する障害者福祉の両立を目標にし始めた時代であった。
また、四十年代は今まで困難であった重度知的障害者のための施設が充実し始めた時期であった。昭和39年に重度知的障害児収容棟が設置され、40年代前半には国立コロニーを始として、全国に地方コロニーといわれる大規模施設が設置された。コロニーというのはアメリカで始まった大規模施設で、多様な障害と年齢層の知的障害者が入所可能な機能を持っている。しかしながら、終身保護施設のため社会から隔離されてしまうという恐れもある。けれど、日本のコロニー施設は従来の施設や職員の質、量においてからも処遇困難な重度知的障害者、身体障害者、精神障害者の受け入れ可能とした。例えば医学的なケアがなければ生命維持も困難である重度知的障害者も医療スタッフを常勤とさせるなどの配慮により施設の受け入れを可能としたのだ。しかしその点において問題も起こった。福祉系職員と医療系職員との共同作業に混乱が生まれたのだ。それは、福祉系職員の入居者の能力向上を図ろうとする姿勢と、医療系職員の生命維持や向上を図ろうとした姿勢の衝突であった。それはまた、理想と現実の衝突でもあった。
昭和50年代、石油ショックにより経済の転換期に入り、知的障害者の施設の増加は落ち込み、入居希望者は在宅を余儀なくされ、特に成人の重度知的障害者の施設に入居できない待機者が著しく増加した。
この時代に現れた問題の一つとして施設入居者の高齢化がある。知的障害者は40歳ぐらいから老化現象が出現しやすいといわれている。40歳以上の入居者は昭和43年には7.2%だったのが、55年には18.8%、平成4年には38.7%と急上昇している。
また、文部省が昭和54年から養護学校の義務設置を実施した。それは知的障害者通園施設を大きく脅かした。つまり、通園者の多くが養護学校に流れて行ったのだ。養護学校により全員修学の流れができ、学校教育も充実していった。このころから、施設に入居させ保護、指導、訓練をさせる知的障害者福祉ではなくできるだけ家族とともにすごさせ、地域社会の中で地域住民とともに生活できるようにすることが望ましいという福祉理念に変わっていった。
社会復帰のための施設として昭和46年に知的障害者通勤寮が、56年には知的障害者福祉ホームなどもできた。しかし、昭和50年代ではまだ知的障害者援助施設として認められてはいなかった。平成2年、社会福祉八法が改正された。その中の知的障害者福祉法は知的障害者通勤寮、知的障害者福祉ホームが知的障害者援助施設として認められ、知的障害者地域生活援助事業、知的障害者相談員が法制化した。
ノーマライゼーション
1970年代後半以降、ノーマライゼーションという概念が現れ世界の国々の障害者福祉、教育を変えるひとつの大きな契機となり、さらにはより所にすらなった。今日では能力主義による「恒久遅滞論」や学力テストに対抗する概念になった。もちろん日本にも多くの影響を与え、現在も障害者のさまざまな面で根本的な支えになっているように思える。
スウェーデンやデンマークなど、現在でも障害者福祉において各国をリードしている北欧の国からこの言葉、概念が生まれた。スウェーデンでは現在、特に重度であるとか障害を重複していない肢体不自由児、知覚、聴覚障害児のほとんどが普通学校に通っている。それは各子供たちが持つ能力に合わせたカリキュラム作成が可能にしているのだ。ノーマライゼーションという概念を最初に発表したのはデンマークの精神遅滞者協会の会長であるバンク−ミッケルセンで1957年のことである。その後、1969年スウェーデンの精神遅滞者協会の会長であったニルジェによって初めて体系的に論述された。この論述は英語で書かれていたということも深く影響を及ぼす原因となっていた。
1970年代では北欧の国ではノーマライゼーションという概念は政府にまで影響を与えるものとなっていた。またその概念は国によって差はるものの、世界中に影響をあたえたといえる。脱施設化、脱病院化の波もその影響の功績を物語っているもののひとつである。ノーマライゼーションの原理の定義を再構成したものに「可能な限り文化的に通常である身体的な行動や特徴を維持したり、確立するために、可能な限り文化的に通常となっている手段を利用すること」(ヴォルフェンスベルガー、1982年)というものがある。これから理解できるように施設や病院といった一般社会から隔離された場所に追いやることはノーマライゼーションの概念から深く外れることを意味する。70年代からの脱施設化、脱病院化で成果を上げた国にアメリカが挙げられる。アメリカは1967年から1987年の20年間で収容者数を半分以下にした。
また「自己決定の権利」も重要なキーワードのひとつである。それには自己のための主張もできないという障害者観を一掃しなければならない。デンマークやスウェーデンでは1970年にはすでに政府が特殊学校や職業学校、グループホーム、などにおいては精神遅滞者の協議会が設立されるべきあるとしている。また、ちゃんとした教育を受けた障害者は自らの権利を主張することが多くなると言われている。「自己決定の権利」を進めるためには主張できる場の提供だけではなく、権利を主張できる教育も必要なのだ。そういった面から考えても障害者教育というものが多くの可能性を含んでいることが分かる。さらにはまだ課題を多く残しているものの住居や環境においての影響も目を見張るものがある。他色々な点で障害者福祉、教育などにおいてノーマライゼーションは世界中に影響を与えた。
しかし、各国に歴史的な障害者に対する偏見も多く残っているのも事実である。例えば、日本と同じ第二次世界大戦の敗戦国であり、同時期に福祉をリスタートさせたドイツは、他の先進国に比べ障害者福祉の点で大幅な遅れをとっている。それは、戦時中のヒトラーが行った障害者の虐殺や断種計画が原因だと言われている。約30〜50万の障害者が虐殺や断種の犠牲になった。しかも、保健婦などの専門家たちもその計画に参加していたことも今の障害者福祉の大きな傷跡となって残っている。そのため、障害者にたいする一般的な理解を国民に普及させることが他の先進国に比べ難しく、ノーマライゼーションはドイツでは比較的浸透になかった。
現在の日本の障害者事情
今日の知的障害者福祉は地域福祉と施設福祉との整合性をどのようにはかっていくかが問題である。日本において障害者が地域社会とともに暮らしていくという理念が近年花開くと同時に、プライバシーという問題が関わってくる。これは知的障害者自身だけではなく親にも」見られることだが、「障害者であることを知られたくない【障害を持った子供を持って恥ずかしい)」という観念が未だ捨て切れていないことに理由がある。そのため、障害者の施設は開かれたたものになりにくく、世間の障害者に対する知識も定着しにくい。しかし、それを生み出したのは障害者自信または障害児を持った家族だけではなく、地域の人々が生み出したものでもあるのだ。
障害を持った人々やその家族は様々な方法、例えばスポーツ、絵画、音楽などで地域社会に彼らの存在をアピールしている。格方面でのそういった活動も近年広がっているように見える。サルサガムテープ(知的障害者を中心に、健常者も含めて約30人で「バリアフリー・ロック」を掲げ、メンバーが楽器を楽しみながら全国の福祉施設などで演奏している)がフジロックフェスティバルへの参加が決定したこともその一例であろう。しかし、知的障害者の地域活動の実態は、「参加なし、ほとんどなし」が72.3パーセント(厚生省 知的障害者実態調査から)を占めている。また、障害者の地域社会化の歩み寄りは一方的なものでいいのだろうか?障害のある子供を持つ家族にはいまだ解決されない問題、不安がたくさんある。障害者が地域社会とともに暮らしていくという理念の実現には、地域社会の一員である私達からの歩み寄りが必要であるのは確かであろう。
雇用についても多くの問題が残っている。現在各企業の規模に合わせて障害者を雇う規定があるがそれは代償としてお金を払えば免除されることが可能であり、その免除を使用している企業が多い。すなわち、代償を払ったほうが割に合うという現状があるということである。また障害者の人々が採用されたとしても企業内での差別、具体的には他の社員からの反感などがあるという。つまり一般的な方法で採用された人と特別な枠から採用された人との間に壁ができてしまい、人間関係などで苦しむ姿がみられる。
歴史的に見て人間の思想というものが大きなハードルとなっている。それは現在においても変わらない。限りなく健常者に近づこうとする教育と生命維持を主張する医療の葛藤や、開かれた施設とプライバシーなどはそのいい例である。さらには性的問題、つまり障害者の結婚や生殖に関する問題は医学、宗教さえも絡んだ問題であり、各国の特色が強く出る問題でもある。このような問題は理想と現実との境のもんだいであるが、そこに迷信的な伝統というものが絡んでいるために、問題をさらに複雑化している。
現在までの障害者観の歴史においての大きな変革は健常者によるものであったが、知的障害者教育の浸透や前述した北欧などでの精神遅滞者の協議会の普及が進めば、今後は知的障害者の人々がその意識改革に大きな影響を与えることも考えられるのではないだろうか。知的障害者教育がある程度広まってきた現在において、障害者の福祉、教育のさらなる躍進には障害者自身の活躍が期待できるのではないだろうか。(10374字)
参考文献
ヴォルフェンスベルガー 中園康夫、清水貞夫 訳
『ノーマライゼーション』 学苑社 1982年
北野 与一 『障害者教育・福祉の原流』 不昧堂出版 1997年
田中 俊雄 『障害者教育論』 ミネルヴァ書房 1991年
中西 由起子、久野 研二 『障害者の社会開発』 明石書店 1997年
中村 優一編 『世界の社会福祉 アメリカ・カナダ』 旬報社 2000年
『世界の社会福祉 日本』旬報社 2000年
『世界の社会福祉 イギリス』 旬報社 2000年
『世界の社会福祉 スウェーデン・フィンランド』 旬報社 2000年
『世界の社会福祉 フランス・イタリア』 旬報社 2000年
『世界の社会福祉 ドイツ』 旬報社 2000年
柳崎 達一 『知的障害者福祉論』 中央法規 1999年