新しい学生と学校の対話方法

渡邉 正高

【はじめに】

2000年8月22日、東京地方裁判所による東京大学教養学部キャンパス内の駒場寮旧北寮および旧中寮建物の明渡しの執行が行われた。三鷹国際学生宿舎の建設とそれに伴う三鷹寮と駒場寮の廃寮計画が具体化した1991年から10年の月日が経っていた。旧寮建物内の残留者は退去し、同時に建物内に残された物品も搬出され、同年9月末までに引渡し手続きを完了して駒場寮の廃寮は完結した。その後彼らは駒場寮があったすぐ横の空き地でテント生活を送り現在でも行っている。2001年からは駒場寮の解体作業も本格化し、同年8月22日、60年以上もの間親しまれてきた駒場寮は駒場キャンパスから姿を消した。

なぜこのような事態になってしまったのであろうか。なぜ両者が心を通い合わせることができないまま、三鷹の新寮への移転ができなかったのであろうか。このレポートでは東京大学の駒場キャンパスにかつて存在した駒場寮の問題を取り上げて、現在社会が抱えている問題である市民(学生)と行政(大学)の関係のあり方について考えていきたい。

【駒場寮の歴史】

江戸時代の駒場近辺は、徳川8代将軍吉宗のころ (18世紀初め) 、将軍家の御狩場になっていた。この御狩場の広さは 50ha もあり、現在の駒場公園の敷地も含まれていた。明治に入って、幕府が崩壊し、明治政府へ明渡されたこの駒場の領地に1874年に新宿御苑内に創設された内務省農事修学場が1878年、この駒場の地に移転し駒場農学校と改称された。そして1890年、東京帝国大学の直下に入り農科大学となり、これはその後東京帝国大学農学部と改称され、現在の東京大学農学部に至っている。

そして時を同じくして1890年、本郷向ヶ岡に創設された第一高等中学校の在学生のために寮が開設されたがこれが現在の駒場寮の始まりとされる。この時に寮委員長、総代会等、寮の運営組織が作られ、この制度は100年経った現在まで受け継がれてきた。まもなく第一高等中学校は学生制度の改革により第一高等学校(現在の東京大学教養学部)と名称を変えた。寮歌「ああ玉杯に」が生まれたのもこの頃の事である。
 1923年、関東大震災により寮は崩壊し、それを機会に1935年には第一高等学校(向ヶ岡)と東京帝国大学農学部(駒場)が敷地を交換した。こうして第一高等学校は駒場に移転、寮もそれに従って当時としては最新技術の鉄筋三階立てで新築された。これが現在の建物としての駒場寮の始まりである。(東京大学駒場キャンパス内で当時の建物で現存するのは正門、1号館、90番教室、101号館、教務課、解体される前の駒場寮のみである)。そして19455月、駒場も空襲を受け、寮は残ったが学校の建物はほとんどが消失した。8月、戦争は終わり、焼け跡の中で駒場寮の新しい歴史が始まった。そして1949年、新しく発布された日本国憲法の下での民主主義的な教育制度による教育制度の改革により、第一高等学校、東京高等学校(一部は東京大学教育学部に昇格)が東京大学に吸収され、東京大学教養学部となった。こうして駒場寮も東大教養学部の寮となり新たな歴史を刻むこととなったのだ。

東大の寮となって以来はレッドパージ、60年安保、全共闘など、日本中を巻き込んだ学生運動の表舞台となるなど、まさに日本の表舞台であった。この時期駒場寮は数多くの人材を世に送り出した。疾風怒濤の学生運動が終わりを告げた後、学生たちの間に無気力感が広まる中、駒場寮は新文化の発生源となった。190年代後半には、倉庫として使われていた旧寮食堂北ホールを「駒場小劇場」とし、新しい演劇の拠点となったのである。この小屋は駒場寮が廃止されるまで、数多くの劇団の練習・公演に使用されていた。

こうして駒場寮は学生自治の下多くの若人が青春を謳歌したのであった。しかし、1990年代になると状況は一変するのであった。 

 

【駒場寮問題の経緯】

1991年春、 老朽化が進んでいた旧三鷹寮を廃止して新しい三鷹国際学生宿舎を建設する計画が浮上した。新しい寮の面積は三鷹寮と駒場寮を合計した面積と留学生分を上乗せしたものであったため駒場寮廃止の噂が立ち始めたのはこの頃であった。そして同年十月、教養学部教授会が三鷹国際学生宿舎構想を承認し、三鷹の新学生寮建設が正式に決定し、駒場寮廃止の可能性は一気に高まった。そして教養学部側は三鷹国際学生宿舎構想の基本方針を作成した。下が主な内容である。
基本方針
 (1) 千人規模
 (2) 日本人学生と外国人留学生の混住とし比率は7:3。女子学生を含む。
 (3) 個室、食堂なし。補食用設備、共用施設の充実。
 (4) 大学が建物の管理および入寮選考に責任を持つ。
 (5) 年次計画の進行に伴い、三鷹寮・駒場寮は順次廃寮とする。

上記のように基本方針の中には駒場寮の廃止が含まれているものであったため、東京大学の主要な学生自治組織である学生自治会代議員大会、学友会(サークル)総会、駒場寮自治会は、駒場寮の存続や新寮建設に学生の意見を取り入れることなど計11項目を教養学部側に提出したが、これに対し学部側は上記の11項目のうち8項目については合意したが、(1)三鷹に新寮を建設すること、その際駒場寮の廃寮は前提としない、(2)新寮建設に当たっては全構成員自治の立場に立って充分な議論 をし、合意後に着手すること、(3)本年度予算請求行わないこと、の3項目について合意しなかった。

 その後も学生側と教養学部側の協議は続いた。学生側が特に主張したのは(1) 三鷹に自治を保障し学生の要求を反映した新寮を作る事。(2)困窮学生を救済し、サークル・クラスの自主的活動を保障するため、駒場寮の一方的廃寮に反対。(3)学生の要求を取り入れて(入退寮選考への参加など)「三鷹国際学生宿舎」建設を進める事。(4)苦学生に新たな経済負担を課し、サークルなど学生の自主的活動に障害を持ち込むような駒場寮の一方的廃寮を行わない事。という点であった。上記のいずれにも該当するのはその寮に寮生自身によるいわゆる「学問の自治」を認めさせることであった。1992 三鷹国際学生宿舎の工事が竣工され、同年に完成。 翌年の1993年からは一部の三鷹国際学生宿舎への入居が開始された。これにより旧三鷹寮は廃止されることになった。そして新三鷹寮がスタートしたのと同じ時期に教養学部側は駒場寮への入寮停止と廃寮のタイムスケジュールを提示した。これに対し駒場寮委員会は駒場寮存続を求める署名約2500通を学部側に提出したが学部側は往来の態度を変更することは無かった。その後19944月に駒場寮で33時間連続停電事件が発生すると、学生側の怒りは頂点に達し、一部の駒場寮生による学部長室前への座り込みや、ストライキなどが決行された。しかし、結果的には大半の授業が正常に実施され、実効の少ないストライキとなってしまい、学部側へ計画変更を促すまでには至らなかった。しかし10月、駒場寮自治会は学部側からの「入寮募集停止」通達の如何にかかわらず、1995年度以降も例年通り入寮募集を行った。そして翌年199510月に東京大学名での駒場寮廃寮「告示」および教養学部の「特別措置」が行われた。学部長が告示を口頭で読み上げたが、学生の抗議行動により、学生には伝わらなかった。 そのため、時教養学部側は寮生への告知を文書で通達するために寮母を通じて寮生の名簿を入手するという事件が起き、後に学部長はこの件に関して謝罪した。翌1996年には一貫して入寮案内を行う駒場寮側に対して学部側はついに強硬手段を採るようにする。41日以降、電気・ガスの供給を停止することを予告したのだ。 41日には電気・ガスの供給の停止は行われなかったが、教養学部はこの日ついに「廃寮宣言」告示した。そして「旧駒場寮の建物・備品の管理を学部が行う」という趣旨を通達した。こうして形式的にはこの日をもって駒場寮は廃止される事になった。その後、学部長と学生自治会・「旧」駒場寮自治会との話し合いが執り行われ、学生側が主張した「電気・ガスの供給再開 」「館内放送設備の復旧」は認めなかったが、居住者を居室から追い出して居室に鍵を掛けたり、居住者の荷物を持ち出したりするなどの実力行使は行わないことを認めた。 その後も寮側と学部側の駆け引きが続いた。あくまで交渉の前提は電気・ガスの復旧と解体工事の中止だとする寮側と、既に廃止された学生寮の自治組織は存在し得ないとして「旧」駒場寮自治会との交渉ではなく、寮生個人との交渉を望む学部側の対立は平行線をたどった。 駒場寮の電気・ガスの供給が停止されて以来、駒場寮への電気供給(ガスはともかく)は、発電機を借り受けたり、またプレハブ仮サークル棟の駒場寮自治会に割り当てられた部屋からケーブルを引っ張ってくるなりして、復旧がなされてきていたが、教養学部側から特にプレハブからの電気供給を、「盗電」行為であるとして、やめる趣旨の告知がなされ、学部職員が「強行的」手段で駒場寮内の電気を断絶するという措置をとった。しかし、これは一般学生側からの非難を浴び翌日電気の復旧作業が行われた。

こうした両者一歩も引かない状況が続いた620日、教授会において、駒場寮の取り壊しと「法的措置」を学部長に一任することが承認される。学部当局の申し立てに基づき、駒場寮内に裁判所の執行官が立ち入り「占有移転禁止の仮処分」のための検査を行なわれた。寮の周りをロープで囲み、多数の警備員を動員し 配置された。この行為は学生側にとって「学生の自治」を脅かしかねない非常に危険な横暴ととして捉えられた。そしてその後、駒場寮委員会を代理する弁護団が、一連の占有移転禁止の仮処分の決定 から強制執行、調書提出に関しての不当性を主張する、異議申し立てを行なった。

そんな寮生にさらに追い討ちをかけるような事件が起こった。1128日、学部当局によって、4月と6月に続いて、三たび駒場寮への電気供給がストップされる。今回は事前の通告はなく、朝の10時ごろ突然にして電気は消された。夕方の6時から学生課のロビーで教養学部側との緊急交渉が行なわれるが、電気復旧の意図がないことが確認されたのみだった。 6月の学部側による電気ケーブル切断がなされて以来、駒場寮への電気供給は、南ホールとの間に張られたケーブルを介して行なわれていた。しかし今回の学部側の措置は、配電盤の操作によってその南ホールへの電気供給自体をストップする、というものだった。

12月には「何者」かによって駒場寮への電力供給が復活し、なんとか最悪の事態での年越しは避けることができたが、年も改まった1997128日、東京地方裁判所は「決定通知書」を出し、駒場寮側の異議申し立てを却下して、1997910日に執行された占有移転禁止の仮処分を確定した。そして24日、国(法務省)は、自らを債権者として、駒場寮生(であると見倣された)46名及び3組織を債務者として、駒場寮の明け渡しを求める仮処分の申し立てを、東京地方裁判所に行ない、同年101日には国(東京大学)が「明け渡し本裁判」を東京地裁に提訴 した。この間口頭弁論が行われている間も教養学部側と駒場寮側の対立は続いていた。1999124日には学部側が南ホール取り壊しのためのフェンス設置工事を執り行った。事前の予告もなく、早朝6時前からの「抜き打ち」的工事。ガードマンを数百名動員されたが、寮生・学生・支援者による抗議行動で、工事は途中までの段階で中止せざるを得なかったが、23日に ガードマンを増強して、やはり事前の予告もなく朝から工事を執行し、工事は完了するという出来事があった。その後19991122日に駒場寮側は、学部側に対して要求書を提出したが、要求項目は(1)駒場寮への電気・ガスの供給を再開すること(2)大学自治を踏みにじる駒場寮「明け渡し」裁判を取り下げ、駒場寮問題を話し合いによって解決すること(3)ガードマンによる実力排除や警察力を用いた、暴力的「取り壊し」工事を二度と行わないこと(4)学生・寮生との合意のない、駒場寮「廃寮」計画をいったん取りやめ、学生との合意に基づいたキャンパスづくりを行うこと の四点であったが、教養学部側からの回答を得ることは出来なかった。そして迎えた2000323日、東京地方裁判所にて仮執行宣言を含む判決が言い渡され、2001531日、控訴された東京高等裁判所は、旧駒場寮建物の寮生らに対し、同建物を明け渡すよう命じる判決を下したのであった。
 【駒場寮問題の問題点】

結局、駒場寮は明渡され、現在は完全に廃寮になってしまった駒場寮であるが、このような10年以上にも及ぶ駒場寮側と教養学部側の対立が続いてしまったのはなぜなのであろうか。結論から言えば、この両者の主張の間に一定の「正当性」が存在するものと考えられるのがひとつの要因であろう。ここでは実際に両者の主張について考えていきたい。

 まずは駒場寮であるが、駒場寮側が一番危惧したのは言うまでもなく教養学部側の一方的な駒場寮廃止宣言により、「大学の自治」が脅かされることである。学部側は199648日、駒場寮の電気・ガスをストップし、同じく同日同時刻に渡り廊下の解体(学生側に言わせれば「破壊」)を開始した。またさらに、199893日には、同日未明に寮施設の南ホールで起きた放火を理由(これも学生側に言わせれば「口実」)に、南ホール部分への電気をもストップした。この事件について、駒場寮側は次のように述べている。

 

『電気・ガスを止めるなどということは、民間の立ち退き事件でもまずあり得ないことです。それをこのようにして学部当局はやってのけました。このことから読み取るべきは、学部当局は学生を大学の当事者として認めていないということです。(一部省略)そんな存在と見做される学生ですから、学部当局の計画に反対すると見るや、「大学の自治」に名を借りてあらゆる弾圧も正当化される訳です。』 

                 (1 「はじめに」より)

 

上の駒場寮側が述べている「大学の自治」の自治は、自らの行動を律する意志、つまり「自律」と、それを具体的に行動に表わす「自己統治」という意味に解析することができる。この考え方は基本的に教養学部側も同じである。しかし、駒場寮側と教養学部側の一番異なる点は、その「自治」の対象が学生の集団(ここでいう自治会)の内部か外部かと言うことである。外部というのは言うまでもなく大学当局、つまり教養学部の事を指す。つまり駒場寮の考える「大学の自治」とは、学生にとって「外部」である大学側に学生自治会自らの意思決定を干渉されるこのない権利として捉えられているのである。

これに対し、教養学部側の考える「大学の自治」とは、学生自身によって構成される「自治会」といった集団内(又はそれに順ずる学生主体の団体)の、その内部(ここでいえば駒場寮自治会)の「自治」に関して干渉することができない権利だと考えられている。つまり、自治会を構成しているメンバーである一人一人の利害・特権や、自治会としてのそれらが対立する可能性が存在したときの、利害を調節する基準を学生自身によって定める権利を侵さないことを「大学の自治」として捉えている。つまり学部側の考えでは例え学生自身の意思によって決定された行動であったとしても、それが外部(学部・大学ひいては社会)の道徳・規範と照らし合わせて健全なる意思決定ではないのであるならば、外部のものが学生による「大学の自治」を修正することは誤りではないとは言い切れないが、公共の福祉を守るためには適切な行為であるという解釈をしている。下の文章を見ると学部側のそのような考えが伝わってくる。
 

『今回の措置を、大学の自治の侵害である、と非難する声があります。しかし、「大学の自治」の名において、市民社会のルールに照らして違法でしかない事態を大学が放置し続けることを求めるのは誤りです。教養学部が、教育と研究の自由の拠り所として、大学の自治を根幹とすることは、従来も現在も変わりはありません。しかし、大学の自治は、市民社会に対する明確な責任に裏打ちされたものでなければならないはずです。とくに、国立大学の予算の執行や建物管理に関しては、国民に対して明確な責任があることを、たえず念頭におかなければなりません。大学の構成員として、社会に対する責任を共有すること、市民社会のルールを自覚したうえで、教育と研究の自律的な営為に参加することにこそ、大学の自治の原点はあるのです。大学は、けっして社会に閉ざされた論理のまかりとおる場であってはなりません。

 駒場学寮の廃寮は、旧三鷹寮とともに宿舎機能を統合して三鷹に国際学生宿舎を建設するという、東京大学が国民に対して公にした意思を実現する上で、避けて通ることのできないプロセスでした。そして、現にすでに、三鷹国際学生宿舎という福利・厚生施設の実現により、東京大学の多くの学生がその恩恵を受けている以上、その約束を反古にすることは国民に対する背信行為となってしまうのです。

 学生の皆さんには、「学生の自治」の根拠が「大学の自治」にあること、そして、「大学の自治」が社会に対する責任を免れたものではないことを真剣に考えてもらいたいのです。「学生の自治」は、学生の自治団体が決めたことを、大学当局に認めさせるということによって成り立つものではないのです。市民社会の論理を踏まえてこそ「大学の自治」は真に実効的なものとなるのであり、「学生の自治」は、社会に対する大学の責任を共有することによって、初めて「大学の自治」を真に構成する力になりうるのです。

 確かに学生の自治の根拠が大学の自治にあること、そして、その大学の自治が社会の責任を免れたものではないことは言うまでもありません。以上のようなことを考慮すれば、教養学部側には学生による「大学の自治」に関して不安が生じた時には、その不安を解消する義務が社会に対してあると考えられます。』(3 「学生のみなさんへ」より)

 

この結果、同じ「大学の自治」という言葉に二つの意味が生じ、それぞれが一定の「正当性」を保っているため、一方の意見が踏査されるということにはならなかったのだと考えられる。

 次に、この駒場寮存続の是非について、学生による投票が行われたという事実である。これはどう受け止めればよいのであろうか。この学生投票は、1999112日、駒場寮自治会が浅野学部長および永野学部長特別補佐(共に当時の役職)に対し、駒場寮の「明け渡し」裁判を取り下げ、駒場寮問題を話し合いによって解決すること、及び駒場寮「廃寮」計画をいったん取りやめ、学生との合意に基づくキャンパス造りを行うことを求める要求書を提出したことに端を発する。駒場寮側は、学部側による「一方的」な「廃寮」計画の撤回を実現するために、は学生自治会・学友会学生理事会と共同で、要求書と同様の内容の主文を代議員大会へ提起し、これによって可決され学生投票が発議された。
 学生投票においてこの主文は、賛成2343・反対1341・白票431という結果をもって批准された。さらに、14のクラスアピールも上がった。このことは、学部側による一方的「廃寮」宣言以降の全学生による「公的」な「廃寮」反対の意思表示であるという点で、特に強調される必要がある。つまり学部側の「駒場寮廃寮」という意見が学生の「廃寮」に反対する主文が批准されたことにより、公共性を持ちえなくなってしまったという点であり、選挙という極めて民主主義的な手段によれば、学部側には学生の意見を無視した一方的な「廃寮」計画を撤回し、学生との誠実な交渉につき、今後のキャンパスについて充分に話し合いを行って一つ一つ合意を作っていくことが望まれるのである。

 これに対して学部側はどう考えているのであろうか。そのことに関しては次のような意見がある。

 

『次に、「学生投票」の内容について申し上げたいと思います。私は、「学生投票」が、教養学部学生自治会のもっとも重要な意思表示であると考えていますので、学部長として重みをもって受け止めているつもりです。しかし、いかに「学生投票」の要求であっても、学部として実現不可能なことにはノーと言わざるをえないことがあります。今回の皆さんの要求の核心、つまり「抜本改修や400人振り替え提案を実現することにより、駒場寮を存続させることを学部当局に求めていこう」という部分に関する私の回答は、残念ながらノーです。その理由は、すでにビラでも示していますが、要約すると次のような理由からです。』                         (3 同上より)

 

 

吉田学部長はその理由について(1)そもそも学部が駒場寮の廃寮という方針を採用したのは、手狭な駒場キャンパスの効率的利用のためには、グランドを除くとキャンパスの四分の一程度の面積を占める駒場寮をなくし、その跡地を福利厚生風致ゾーンとして有効に活用する必要があると判断した事。(2)平成74月に三鷹国際学生宿舎が605室に達した上で、平成83月に駒場寮を廃寮にしたわけなので、駒場寮の寮機能は、実質的な利用者数という点で見れば、すでにこの時点で三鷹国際学生宿舎に吸収された事。の二点を挙げた上で次のように述べています。

 

『この学部の方針が、問題発生から10年を経過した今日もなお学生諸君の理解を得ているとはいいがたいことも、残念ですがもう一面の事実であり、今回の皆さんの「学生投票」の結果は、そのようなことを雄弁に示していると思います。このことは教養学部長としては、まことに残念な事態であり、そのような意味で「学生投票」の結果をきわめて重く受け止めています。そして私は、なぜこのような事態になっているのか、その最大の原因は、廃寮のプロセスに関する認識が、学部と学生とでは大きく異なっている点にあると認識しています。こうした認識から、ここで私は、一つの提案をしたいと思います。』

                             (3 同上より)

 

 

 そこで吉田学部長は(1) 今後の学部と学生の信頼関係を構築するために旧駒場寮の廃寮のプロセスを検証することを挙げ、そのために平成8年には、学部側の三鷹国際学生宿舎特別委員会と教養学部学生自治会が共同でこの問題に関する「年表」を作成した。旧駒場寮の廃寮のプロセスを、教官と学生の代表が共同で検証するフォーラムを設置したのである。これは両者の考えの違いを克服するためには非常に有効な手段ではあったが、駒場寮問題の抜本的解決に至る事には至らなかったのは言うまでもない。

 

 

近年、全国各地で公共事業実施をめぐる地元住民と計画主体との対立・紛争という社会問題が顕在化している。今回ここで紹介した駒場寮の問題のほかにも、最近では滋賀県の豊郷町の小学校校舎新築問題や東京都国立市のマンション問題などがあげられる。

上記の駒場寮問題で出された「大学の自治(あくまでこの駒場寮問題での)」や学生投票による廃寮反対の圧倒的多数という投票結果は、理念的あるいは情緒的なものが大半であった。しかし、現実社会が市場メカニズムによって動いている以上、ただ感情的に駒場寮を守れと訴えるだけでは、現実の廃寮問題の解決にはならないし、実際駒場寮も存続させることは不可能であった。しかし、だからといって電気・ガスの供給停止や寮の抜打ち解体などの教養学部側が今回行った措置は、市民社会から容認されるものであるとはいいがたい。ましてや、学部側(行政)のそのような非民主的な行動は、マスコミによる誇張報道等も手伝って大学のみならず全国の自治体の行政側への不信感が増幅され、国民の中に先入観となって潜在し、今後の行政運営に悪影響を及ぼしかねない。

それらを踏まえた上で、学生(一般市民)運動が、学部(行政)と深い係わりを持って話し合っていく学生参加型のスタイルは、学生(市民)と大学(行政)との関係をより近いものとして、両者の健全なる信頼関係が築かれていく方向性を示しており、無数の学生(一般市民)から成る大学(社会)における最も明快な「公共性」の実現を可能にすると思われる。

しかしその学生参加型のスタイルを作り上げていくためにも、学生自身が大学による大学改革へ興味を持ち、積極的に参加することが何よりも必要とされているのは今後の我々にとって大きな課題であろう。

 
 

参考文献

     1東京大学駒場寮自治会「1999年度駒場寮入寮案内」1998

     2東京大学広報委員会 「学内広報 1230」 2002

     3東京大学教養学部 「教養学部報平成13712日号」2001